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  • 凪良ゆう最新作『滅びの前のシャングリラ』冒頭を一挙掲載!
滅びの前のシャングリラ/52ヘルツのクジラたち(2021本屋大賞ノミネート)
2020年09月23日
教養 連載 寄稿

凪良ゆう最新作『滅びの前のシャングリラ』冒頭を一挙掲載!

凪良ゆう 作家
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「ちょっと、危ないじゃん」
「ご、ごめん」
 顔を上げると、女子がぱっとスカートの裾を押さえた。床に転がっているぼくは、椅子に座っている女子のスカートの中を覗き込む恰好になっていた。
「うわあ、どさくさに紛れて覗かれた」
「の、覗いてない」
 慌てて立ち上がろうとしたとき、あ、と女子から顔を指さされた。なんだと顔に触れると、ぬるりと手のひらが滑った。触れた部分が赤く染まっている。鼻血だ。
「生足ごときで昂(たか)ぶってんじゃねえよ」
「江那くん、ラッキースケベじゃん」
 どこがだ。ぼくにとってはアンラッキースケベでしかない。というか、スカートの中なんて見ていない。痛む鼻を押さえているぼくを、残酷な笑い声が包み込んでいく。
 ああ、これはやばい。早くいつものやり方に逃げ込もう。ぼくは羊の皮をかぶった獣。嘲(あざけ)り笑うこいつらの目の前で八重歯は牙に、深爪は凶器の鉤爪に、伸びろ、切り裂け。獣となったぼくは搾取の柵を跳び越え、どこまでも自由に山野を疾走していく。
 けれど今、ぼくの脳は悔しさと羞恥と痛みに萎縮し、自分だけの妄想の世界に逃げ込む余力すらない。じりじりと追い詰められ、こいつら全員死んじまえ、とつい本気の呪いの言葉を吐きそうになる。いけない。こんなときこそユーモアを忘れるな。ユーモアを――。
 なぜだ。なぜこんなときでも、ぼくはぼくを戒めているのだ。
 戒められるべきは、こいつらのほうじゃないか。
 神さまなんてこの世にいない。ユーモアでは世界もぼくも救われない。
 こいつら全員死んでしまえ。
 それが叶わないなら、ぼくがもう死んでしまいたい。
 脳天から爪先まで暗黒に塗り込められそうになったとき、教室のドアが開いた。ぴたりと井上たちの笑い声がやむ。伏せたぼくの視界に、すらりと膝から下が長い足が入ってくる。どくんと心臓が鳴る。おそるおそる上げた視線の先には、藤森さんの姿があった。

 

 

「なに、これ」
 ぼくを見て、藤森さんは眉をひそめた。顔は鼻血でべちゃべちゃ、制服のシャツを脱いだTシャツ姿で床に這(は)いつくばっている姿を、よりにもよって藤森さんに見られるなんて。
「あれえ、雪絵どしたの」
 井上は焦ったようにまばたきを繰り返した。
「友達と買い物行くんじゃねえの?」
「なくなったの。井上くんたちはなにしてるの?」
 不快さが前面に出ている問いに、井上はわざとらしく首を左右に振った。
「フリースローごっこしてたら江那が勝手にコケたんだ。そんで早苗(さなえ)のスカートの中覗いて、興奮して鼻血噴いちゃってさあ。ラッキースケベ炸裂の瞬間だよ」
 さすがに流血現場はバツが悪いのか、ごまかすように井上が大袈裟に笑い、みんなも追随してうなずく。藤森さんはみんなとぼくに等分に視線を注いだ。その目の冷たさに、みんなの笑い声が小さくなっていく。王女の裁定を待つかのように、みんな黙って藤森さんを見ている。
「引くわ」
 一言だった。ぼくか、井上たちか、おそらく両方に言ったのだろう。ぼくはますます死にたくなり、井上たちは曖昧な笑みを浮かべる。気まずい空気の中、井上のスマートフォンが鳴った。
「おーい、なんか地球滅亡するんだって」
 井上が画面を見て言った。友人からLINEで回ってきたらしいそれに、ぼくと藤森さんを除くみんなが飛びついた。興味ではなく、今の気まずさを払うようにはしゃぎだす。
「なになに、地球滅亡って」
「『もうすぐでかい隕石がぶつかって地球やばい』」
 井上がLINEを読み上げる。
「そのネタ何回目だよ。もう全世界が飽きてると思うんだけど」
「大昔にもなんかあったよな。ノストラダムスとかいうの」
「それ知ってる。親が言ってた。恐怖の大王が降ってくるってやつ。昭和だっけ」
「さすがに平成だろ」
 なにもおもしろくないのに、大きな笑い声が響く。笑いは一番簡単な団結であり、団結することで自分たちを正当化しようと必死だ。ぼくと藤森さんだけがその輪から外れている。
 輪から排除されながらも、藤森さんはいっこうに怯(ひる)まない。最上位に座し、それゆえどの輪にも入れない孤高の王女のように、そんな孤独にも慣れているように、たった一粒だけ遠くに弾かれた宝石のように、いつもと変わらず、やや顎を上げた姿勢で立っている。
 床に膝をついたまま、ぼくは見当ちがいの共感を藤森さんに覚えた。厚い中間層に隔てられた上と下の世界のたった一粒同士として、ぼくたちは今とても近い場所にいる。
「あーあ、笑ったら喉渇いた。なんか飲み行こ」
 井上が言い、みんなが動き出した。
「雪絵も行こ」
 しかし藤森さんは井上を無視し、なぜかぼくのほうにやってきた。
 ――えなくん。
 彼女の口がぼくの名前の形に動いた。藤森さんはポケットからハンカチを出し、それをぼくに与えると、呆然としている全員を置き去りに教室を出ていった。
「えー……、なに今の。どういうこと」
 女子のひとりが不満そうにつぶやいた。
「いじめてたって思われたのかな」
「先生に告げ口されたらどうする」
「あの子冷めてるし、告げ口するタイプじゃなさそう」
「っていうか、俺ら普通に遊んでただけだろ。なあ江那?」
 井上がぼくを見下ろす。圧のある笑顔とは裏腹に、安心の保証を求めるせこさが透けている。こいつらは自分たちの行いがいじめだと理解している。ぼくは今こそ獣の姿になって、こいつらの喉笛にかみつくべきなのだ。けれど羊のぼくは、うん、とうなずいただけだった。
「顔、洗ってから帰れよな」
 井上は藤森さんから与えられたハンカチをちらりと見て、おもしろくなさそうに踵(きびす)を返した。他の連中も「おまえが勝手にコケたんだからな」、「ちょっとダイエットして運動神経鍛えろよ」と言いながら教室を出ていき、ぼくだけが残された。
 鼻血はもう止まっていて、唇を舐めたら鉄っぽい味が舌に広がった。手のひらについた血は乾いているけれど、迂闊に汚してしまわないよう、指先だけで藤森さんのハンカチをつまみ、大事にポケットにしまった。汚れたシャツを拾い、埃をはたいていると視界が歪んでくる。
 馬鹿め。泣くな。これくらいなんでもない。乱暴に目元を拭(ぬぐ)い、トイレに行って顔を洗った。鏡に顔を近づけて点検する。痣などはない。よかった。母親にはばれないだろう。
 廊下に出ると、放課後の静けさだけがぼくを待っていた。遠くから運動部のかけ声が聞こえてくる。世界は人であふれているはずなのに、西日の差す朱昏(あかぐら)い廊下にはぼくしかいない。ぼくは藤森さんのハンカチを取り出し、鼻にそっと当ててみた。かすかに花の香りがする。
 藤森さんはぼくを助けたわけではなく、自分の矜持を守っただけだろう。
 わたしは卑怯な行いには加担しない、という意志を表明しただけだ。
 ぼくはそれでも救われたし、藤森さんはますます美しい高嶺(たかね)の花となった。

 

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