「お父さんやお母さんと一緒じゃ駄目なの?」
「駄目」
「友達は?」
「誘ったけど無理って言われた」
そりゃあそうだろう。子供だけで東京なんて――。
「ぼ、ぼくが一緒に行こうか?」
すぐ後悔した。こんなデブとじゃ嫌に決まってる。
「いいの?」
縋(すが)るような目を向けられ、ぼくのほうが驚いた。
「ぼくでいいなら」
「嬉しい。ありがとう」
間髪をいれない返事にぼくは勇気を得た。そして浮かれた。
「東京のどこに行きたいの?」
「わからない」
「わからない?」
「でも東京なの」
藤森さんはゴミみたいな雪が降ってくる薄灰色の空を見上げた。普通は興味のあるなにかがあるから行くんじゃないだろうか。とりあえず行くなら行くで計画を立てるものじゃないだろうか。そういう問いは、空を見上げる藤森さんの横顔があまりに真剣なので飲み込んだ。
長い睫(まつげ)が際立つ横顔に、ぼくは馬鹿みたいに見とれることしかできない。
胸が締めつけられるように苦しく、恥ずかしく、ごまかすようにアポロチョコを食べた。藤森さんにもあげて、ふたりでおいしいねとか、寒いねとか、意味のないことをぽつぽつ話す。ずっとそうしていたかったけれど、藤森さんはふいに立ち上がった。
「もう帰らなくちゃ」
唐突だったので、ぼくはまばたきをした。
「カイロとアポロチョコ、ありがとう」
バイバイと階段へと走っていく藤森さんにぼくは声をかけた。
「藤森さん、東京、一緒に行こうね」
藤森さんは振り向き、うん、と小さく手を振ってくれた。
ぼくは雪が吹き込むホームにぼんやりと立ち、ずっと余韻に浸っていた。帰るころにはすっかり身体は冷え、翌日には風邪をひいて熱を出し、馬鹿だねと母親に叱られたが幸福だった。
あんな奇跡のような一場面が、ぼくと藤森さんの間にあったなんて夢のようだ。いや、本当に夢かもしれない。レベルちがいの片想いをこじらせたあげく、妄想が得意なぼくが勝手に記憶を捏造した可能性――はさすがにない。なぜなら、あのあと正しく夢から醒めたからだ。
うちには年末年始に帰省するような祖父母宅はなく、いつもと同じく母親とふたりで代わり映えなく過ごした冬休みの間中、ぼくは藤森さんと行く東京のことばかり考えていた。
新幹線の切符の買い方を調べたはいいけれど、びっくりするぐらい高く、もっと安い高速バスというものを見つけた。それなら今までためた小遣いでぎりぎり足りそうだと何度も計算し、泊まりになるけど大丈夫かなと心配し、好きな女の子との旅行に胸を高鳴らせ、観光地や店を調べ、会話のネタまで練り、妄想まじりのシミュレーションを繰り返した。
三学期の初日は期待と歓びに満ちて登校した。教室のドアを開けると、一番に藤森さんの姿が目に飛び込んでくる。自分の席に向かう途中、高鳴る胸を抑えつけて声をかけた。
「藤森さん、おはよう」
つややかな黒髪のポニーテールが振り向き、ぼくのテンションは最高潮に達した。
「藤森さん、あの、あのさ、あれから東京のこと」
たくさん調べたよと言う前に、藤森さんは怪訝(けげん)そうに首をかしげた。
――わたしに話しかけてるの?
とアテレコがつきそうな表情だった。固まっているぼくを困ったように見たあと、藤森さんはくるりと仲良しの友人たちのほうへ向き直った。藤森さんの肩越し、どうしたの? なに? という顔をしている女の子たち。女の子たちは、ぼくと藤森さんを見比べている。
「雪絵ちゃん、江那くんと仲良かったっけ」
「さあ、わからない」
藤森さんは小さな声で答えた。女の子たちは不思議そうにぼくを見たあと、どこか残酷な視線を交わし合う。ぼくはその場を通り過ぎ、自分の席に着いた。藤森さんたちのほうを見ないよう、何事もなかった顔で鞄から教科書を出して机にしまいながら、これ以上ない羞恥に耐えていた。
――SOS地球、SOS地球、こちらぼく。緊急事態発生。
――今すぐ爆発して、人類を滅亡させてください。
好きな女の子に無視された。小学生男子が地球爆破を願うには充分な理由だろう。
あのとき、ぼくは身の程というものを知ったのだ。世界は格差に満ちていて、下のぼくと特上の藤森さんを結ぶものなどなにもない。あれはあの雪の日だけのことで、あの日あの一瞬だけで終わらせなくてはいけなかったのだ。はしゃいでいた自分が死ぬほど恥ずかしく、砕け散ったのは地球ではなく、ぼくの初恋だったというオチがついた。
それでもぼくはいじましく藤森さんに片想いをしていたのだが、中学に上がったころから藤森さんは雰囲気が変わっていった。お嬢さまっぽい友人と距離を置き、派手に遊ぶグループとよくいるようになった。見た目は変わらず清楚な感じだが、あまり笑わなくなり、やや顎を上げてつまらなそうに廊下を歩いて行く姿は、庶民を寄せつけない王女さまのように見えた。
昔も今も藤森さんは綺麗だ。けれどぼくはもう、あの雪の日のホームで感じた、今いる場所から根こそぎ引っこ抜かれて別の場所に連れ去られるような衝動を感じない。
それでも彼女を意識してしまうのは、ぼくがまだ、あの雪の日の藤森さんに恋をしているからだろう。もういない幻想の彼女が、いつまでもぼくの心にインパクトを残し続ける。とはいえ、今の彼女から「つきあって」と言われたら即ありがとうございますと跪(ひざまず)くだろう。それくらいには今の彼女も好きでいる。手の届かないアイドルに憧れるように。
ベンチに座って記憶を辿っていると、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。
[米十キロ、ニーキュッパ限定]
母親からのいつものお使いLINEで、ぼくはふっと息を吐いて立ち上がった。
学校でも家でもパシらされる。ぼくの人生とはなんぞや。
今日は比較的平和に終わった。弁当の時間に購買にパシらされた以外は、特に妄想に逃げ込むほどの事案は起きなかった。良き一日であった、と帰り支度をしていたときだ。えーっと井上の大声が聞こえた。ちらっと見ると、井上はスマートフォンの画面を見て顔を歪(ゆが)めていた。
「雪絵、用事あるから今日は無理だって」
「藤森にふられるのなんて慣れてるだろ」
からかう友人に、うっせーと井上は蹴りを入れる真似をする。
それを見て、ぼくのアンテナがぴんと立つ。いい予感は滅多に当たらないが、嫌な予感はよく当たる。というか、いいことがありそうなんていうポジティブな予感自体、ほとんどない。ぼくにとって予感とは九割が不吉なものである。速やかに教室を脱出しようとしたのだが、
「えーなーくーん」
井上に呼び止められた。ああ、やはり予感が当たったか。
ぼくは井上たちに拉致され、他の生徒が下校するまで待たされた。
「それでは第一回、動くバスケットゴール大会かいさーい」
放課後の教室に井上の宣言が響く。黒板を背に教卓にあぐらをかき、体育館から持ってきたバスケットボールを人差し指でくるくる回転させている。いつもの上級民グループは前の席に陣取って、井上には構わず好きにおしゃべりをしている。哀れな羊のぼくはといえば、教室の後方で脱げと命じられた制服のシャツを両手で広げて持っている。
「フリースロー、一本目」
井上がボールを掲げ、教室右側に投げた。ぼくは走っていき、広げたシャツでそのボールを受け止める。つまりゴール役というわけだ。けれどボールをゴールに入れるのではなく、ゴールがボールを追いかける。「一本目、成功」とはしゃぐ井上の元へボールを運んでいく。
「ボール戻すときは駆け足な」
すぐ二本目と言われ、急いで教室の後方に戻る。二本目もなんとかキャッチして、井上の元へと走って届ける。三本目は遠くに投げるふりで手前に落とされ、受け損ねてしまった。駆け寄る際に椅子の脚に引っかかり、机を巻き込んで無様に転んだ。すごい音に重なって、きゃっと女子の短い声が響く。床に倒れているぼくの目には、女子の上履きが映っている。