白いハンカチには、踊るバレリーナが薄い桃色の糸で刺繍してあり、レースで縁取りがされている。目を閉じ、上品で高級そうなハンカチをくんくんと匂いだ。
――藤森さん、東京、一緒に行こうね。
根こそぎ引っこ抜かれて、今までとはちがう場所へと連れていかれる感覚がよみがえり、少し戸惑った。どうしよう。ぼくは同じ女の子に二度目の恋をしかけている。
「またいじめられたのか」
その日の夕飯中、母親からずばりと問われた。
なんのことですか、という顔でとぼけたが無駄だった。
「制服のシャツに血が飛んでたぞ」
母親は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをし、晩酌のビールをぐびりと音を立てて飲んだ。
「ちゃんと洗うよ。うちの洗濯当番はぼくだし」
けろっとしたふうを装った。いじめられている事実は隠せないまでも、それで傷ついているとか落ち込んでいるとは思われたくない。子供だって親に対して見栄がある。
「洗濯当番云々(うんぬん)より前に、シャツを買う金を稼いだのは誰だ」
「お母さんです。汚してごめんなさい」
素直に謝ると、よし、と母親はうなずいた。
「で、一発くらい殴り返したか」
ぼくは無言で立ち上がり、ご飯のおかわりをよそいにいった。一緒に玉子も取ってきて大盛り玉子かけご飯にしてずるずるかき込むぼくを、母親はビールグラス片手にまじまじと見ている。
「おまえはなんでそんな腰抜けなんだ。ほんとにあたしの息子か」
「ぼくもほんと不思議だよ」
シャツに血がつくようないじめを息子が受けていると知ったら、よその母親はとりあえず心配するんじゃないだろうか。なのに、まずやり返したかどうか訊(き)いてくるのがうちの母親だ。
うちには父親の写真はないが、母親の昔のアルバムならある。そこには井上なんぞ蹴りの一発で吹き飛ばしそうな、やばさ全開ドヤンキーな母親の青春が写っている。今はパサついた髪を後ろでひとつにくくった普通のおばさんだが、ひとりで仕事も家事も育児もこなしてぼくを育ててくれた根性者で、口は悪いし性格もきついけれど、ぼくは母親が嫌いじゃない。
「一寸の虫にも五分の魂っていうだろう。多勢に無勢でも、死ぬ気で刃向かったらひとりくらいはやれるんだ。その根性に周りがビビって引く。喧嘩は気合いだ」
「ぼくは上品だったお父さんに似たんだと思うよ」
「馬鹿言うな。おまえのお父さんは喧嘩だってめちゃくちゃ強かったぞ。殴り合いで負けたとこなんて見たことないね。布袋寅泰と同じくらい背が高くて強くて賢くて真面目で誠実で――」
母親のいつもの理想のお父さん語りがはじまった。
「上品で誠実なのに殴り合いの喧嘩するの?」
「必要なときには」
設定が破綻しまくっているが指摘はしなかった。母親の夢を壊してはいけない。けれど布袋寅泰と身長が同じというのだけが妙にリアルなので、高身長なのは本当なのだろう。
「お父さんの欠点は早死にしたことだけなんだね」
まあ、そうだと母親はあっさり肯定した。これまで何人か父親候補になりたそうな男が出入りしたこともあったが、どれも長続きしなかった。ぼくのことなら気にしないで、好きな人ができたらいつでも再婚していいよと言い続けてきたが、母親はそのたび言った。
――おまえのお父さんに比べるとインパクトがないんだよ。
そこまで惚れられるぼくの父親とは、どんな人だったのだろう。
『今夜は予定を変更して、アメリカCNNテレビからの一報についてお送りいたします』
ぼくはつけっぱなしだったニュース番組に目をやった。
『アメリカのCNNテレビが地球への小惑星衝突を速報で流し、現在アメリカ各地で小規模な暴動が起きています。CNNテレビが独自に入手した情報であり、真偽は定かではなく、この件に関して明日にもアメリカ政府の公式会見が予定されているということです』
地球滅亡と笑っていた井上たちの馬鹿面(ばかづら)を思い出した。しかしこんなネットにあふれるフェイクニュースで暴動まで起きるなんて、アメリカという国はアグレッシブすぎる。
「友樹、これまじなのか?」
「デマだよ。アメリカは隕石や滅亡ネタが異様に好きなんだ」
「けどアメリカ政府が公式会見するって言ってるぞ」
「暴動が起きてるから、ちゃんと否定するんだと思うよ。ほんとにやばいんだとしても、NASAとかの賢い人たちがなんとかするよ。映画でもそう決まってるし」
ふうんと母親がうなずく間にニュースは次へと移っていく。
『今日午後、東京都内で波光教(はこうきょう)の幹部と思われる男が身柄を確保されました』
ふたたびテレビに見入った。今年の夏、以前からきな臭い噂が絶えなかった宗教団体、波光教についに強制捜査が入り、テロにも使われる危険な薬物が押収された。
最初はよくある新興宗教団体だと思われていたが、数年前から徐々に奇妙さが浮かび上がってきた。おかしな器具をつけての修行、出家信者と家族との断絶、波光教を調べていたフリーライターの失踪などが続き、駄目押しが教団本部近くで起きた異臭騒ぎだ。
死者まで出てしまい、ついに警察が動いた。数日に及ぶ教団内部の捜索の末に教祖は逮捕されたが、幹部数名が薬物を持ち出して逃走した。警察は総力を挙げて行方を追っているが、全国にいる在家信者が匿っているらしく、成果は上がっていなかった。
「三ヶ月もかかってやっとひとりか。一般市民から高い税金むしり取ってんだから、だらだらしてないで早く全員とっ捕まえろよ。これじゃ安心して遠出もできやしない」
いつどこで危険な薬を撒き散らされるかわからないので、都会の繁華街や電車は厳戒態勢が続いている。小惑星で人類が滅亡なんて馬鹿らしいデマよりも、こちらのニュースのほうがよっぽど重大だ。とはいえ、事件発生から三ヶ月も経つと緊張もゆるんでくる。
「だらだらテレビ見てないで、おまえは早く勉強しな。もうすぐ中間テストだろ」
「やっても一緒だよ。どうせ馬鹿だし」
「どうせとか言うな。流血沙汰のいじめなんて高校までだ。エリートになれなんて言わないから、せめていじめなんてする馬鹿がいない場所に行けるようがんばれ」
そう言うと、母親は二本目の缶ビールを取りに台所へ行った。