「明日死ねたら楽なのにとずっと夢見ていた。
なのに最期の最期になって、もう少し生きてみてもよかったと思っている」
一ヶ月後、小惑星が地球に衝突する。滅亡を前に荒廃していく世界の中で「人生をうまく生きられなかった」四人が最期の時までをどう過ごすのか――。
2020年本屋大賞作家・凪良ゆうが贈る心震わす物語。
冒頭を一挙公開!
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凪良ゆう(なぎら・ゆう)
滋賀県生まれ。2006年、「小説花丸」に「恋するエゴイスト」が掲載されデビュー。以降、各社でBL作品を刊行。17年非BL作品である『神さまのビオトープ』を刊行し高い支持を得る。20年『流浪の月』が本屋大賞を受賞
江那友樹(えな ゆうき)、十七歳、クラスメイトを殺した。
死んでもまったく悲しくないやつだったが、自分の手で殺すことになるとは思わなかった。額や鼻の頭に汗が噴き出てくる。なんて未来だ。すごい世の中だ。もうなんでもありだ。
ホームルームが終わって担任が出ていくと、糸がほどけるように教室の空気がゆるむ。帰宅組はマックだカラオケだと放課後の予定を話し、隣の席の長田(おさだ)くんはウホッホーとバナナをもぎりに行くゴリラさながらの雄叫(おたけ)びを上げて教室を走り出ていく。長田くんは野球部のキャプテンで、甲子園出場に高校生活のすべてを捧げている。
青春の輝きを撒き散らすクラスメイトを横目で見送り、帰宅組のぼくはいそいそと教科書を鞄にしまっていく。ぼくと運動部は縁がない。昔から運動全般が苦手だった。いや、小学低学年くらいまではそうでもなかったっけ。走りもまあまあ速かったのに、そのあたりから体重が増えはじめ、同時に運動も苦手になっていったのだ。
痩せたら運動神経も復活するだろうか。ぽっちゃり体型がほっそりになるだけでも、ぼくの日々は三割マシになるはずだ。仮想の明るい未来を想像しながら帰ろうとしたとき、
「江那ちゃーん、待って待って。掃除代わってー」
背後から、井上がべったりと肩にもたれかかってきた。へらへら笑いながら、なあ頼むよと脇腹を拳で抉(えぐ)ってくる。痛い痛い痛い。
「終わったら連絡して」
返事を待たずに井上は友人と連れ立って帰っていき、ぼくはうつむきがちに息を吐いた。肩にかけた鞄を机に戻し、教室の隅のロッカーから掃除用具を取り出す。
真面目に掃除をしているのはぼくを含めて三人、だるそうにだが一応やっているのが五人、完全にサボっているのが二人。その比率をいつも不思議に思う。
掃除当番は一クラスを男女混合四つに分けて回していく。適当に分けられたグループのはずなのに、しばらく経つとごく自然に、よくがんばる生徒、普通にこなす生徒、全力でサボる生徒という上・中・下の階層に分断されていくのだ。ちなみにサボる生徒が(上)である。
奇妙なことに、どれだけ適当に分けられても、ぼくはいつの間にか下の階層に組み込まれている。ぽっちゃり体型で、勉強と運動は中の下、もしくは下の上。ひとつひとつは致命的ではないはずが、複数が合わさり『江那友樹』になった途端、なんらかの法則が発動し、異世界に飛ばされる漫画や小説の主人公みたいに、ぼくは下の階層へ飛ばされる。けれど飛ばされた異世界でも勇者や魔法使いになったりしない。ぼくは、どこまでもぼくだ。
もがこうがあがこうが、神の摂理のように、ぼくは下の階層から抜け出せない。さらに恐ろしいのは、おそらくこの法則は社会に出ても継続されるだろうこと。
――ぼくは一生、搾取される羊として生きていくんだろうな。
乳を搾られ、じっとおとなしく毛刈りをされ続けるだけの弱い生き物。けれど、と思う。ある日ふと、稲妻のような強く輝かしい天啓がぼくを貫いたりしないだろうか。
――ぼくはもしや、羊の皮をかぶった別の獣なのでは?
――このもこもこしたダサいウールを脱いで、変身するときがくるのでは?
そのときがくれば、ぼくを幼く見せる八重歯は鋭い牙となり、短く切りそろえられた爪は凶暴な鉤形(かぎがた)に曲がり、世界をうっすらと包む不条理という名のベールを引き裂くのではないか。唸りながら荒野を駆け抜ける、獣となったぼくを想像してみる。
箒を使うたび、埃がきらきらと舞い上がる。窓から差し込む西日に浮かび上がる埃にまみれながら、激しく輝かしく燃える獣のぼくの冒険譚を繰(く)っているうちに掃除は終わった。現実から切り離された物語に没頭することで屈辱から逃れるのが、ぼくのいつものやり方だ。
[掃除が終わりました]
井上にLINEを送ると、すぐに返事がきた。
[駅前のカラオケにいるから買い物してきて]
続いて飲み物やスナック菓子などが羅列される。ありがとうとか、おつかれさまというねぎらいの言葉は一切ない。連中は奉仕されることを当然と思っている。
[三階のいちばん奥の部屋。ダッシュ]
言いたいことはたくさんあるが、ぼくはひとまずコンビニエンスストアへ走る。ふざけるな、馬鹿野郎と内心で罵ることもしない。投げつけた罵倒はいつでもブーメランで返ってきて、ぼくの胸にざっくり突き刺さる。その馬鹿野郎にへこへこしているぼく、という形で。
「失礼します」
従業員かと自分にツッコみながら指定された奥の部屋に入った。流行りのJ–POPが襲いかかってくる。暗い室内には井上たちのグループと、他のクラスの女子も合わせて八人がいた。スクールカーストの中でも上位のグループだ。同じ制服なのに垢抜(あかぬ)けていて、妙にだるそうで、笑い声が大きく、先生にもタメ口で話しかけ、教室後方の窓際の席を占有している。
――あ、藤森(ふじもり)さん。
つややかな長い黒髪、大きな目とふっくら薄桃の唇。スカートから伸びた細い足は膝から下がうんと長い。他の女子とはランクがちがうとひとめでわかる。上の中でも最上の女子だ。
我が校一の美少女は、ぼくをちらっと一瞥(いちべつ)しただけで、すぐに飲みかけのアイスティーのグラスに視線を戻した。ぼくは一秒でも早くここから逃げ出したくなる。
「頼まれたやつです」
井上に買い物袋を渡すと、ごくろうごくろうと千円札を二枚渡された。お釣りを渡して帰ろうとすると、「江那くーん」と呼ばれた。おそるおそる振り返ると、笑顔の女子たちと目が合う。
「せっかくだし、なんか歌ってけば?」
「雪絵、なんかリクエストしなよ。Locoとか好きでしょ?」
問われた藤森さんは、いい、とそっけなく答えた。
「じゃあ江那くんに似合うかっこいいの、あたしたちが選んであげるね」
藤森さん以外の女子たちがはしゃいでリモコンを操作する。彼女たちはぼくを仲間だと認定しているわけではなく、ただ嗤(わら)いたいのだ。井上たちはにやにやしている。
「ほら、江那」
井上がマイクを渡してくるが、流れだした音楽は聞き覚えがある程度で歌えない。おしゃれっぽいメロディに立ち尽くすぼくを、みんなが笑いをかみ殺して見ている。
「歌えないなら踊れば?」
井上が王さまのようにソファにもたれる。それは提案ではなく命令だった。
うつむいて自分のスニーカーの先を見た。これくらいのことはよくある。慣れている。けれど今日はつらい。なぜよりにもよって、これが藤森さんの目の前で行われるのだ。
今までもスクールカースト内では下に組み込まれてきたが、地味は地味なりに平和な日々を送っていた。それが井上に目をつけられたあたりから、ゆるやかに下降していった。
原因は特にない。井上の『イ』と江那の『エ』、ひとめで上位グループと下位グループだとわかるぼくたちの席が名簿順で前後したという、ただそれだけの運命のいたずらだ。
ぼくにとっての不運は、井上にとってはパシリがすぐ後ろに控えているという幸運だった。毎日なにか頼まれて使われているうちに、他のクラスメイトにも軽んじられるようになり、二ヶ月ごとの席替えを待つまでもなく、江那くんイコール井上くんの下僕、として定着してしまった。