母親は学歴がないせいで就職に苦労した。その反動で、ぼくには勉強しろとうるさい。期待に応えたいのはやまやまだが、今の成績ではたいした大学には行けないだろう。そんなぼくの進学費を用意するために、母親は毎月かなりの残業をしている。
漫画や小説や音楽など、人生一発逆転の才能も今のところ見当たらず、井上の機嫌ひとつに翻弄される日々。おそらく、ぼくは無装備で未来に立ち向かうことになる。
それらの憂鬱をすべてリセットしてくれるなら、小惑星でもなんでも落ちてくればいい。出口のない未来ごと、もうどかんと一発ですべてチャラになればいい。そんなふうに、たまにやけになってしまうのはぼくだけなんだろうか。ぼく以外のみんなは煌(きら)めく毎日を送っているんだろうか。世界のどこかに、ぼくと同じ気持ちのやつはいないんだろうか。
ごく平穏を装いながら、まったりと絶望しているぼくのような誰かは。
翌日の教室は、いつもより活気があった。
「昨日のニュース見たか。隕石が衝突して人類滅亡するってほんとかよ」
「隕石じゃなくて小惑星だろ」
「地球の前に、月にもぶち当たるかもってネットで見た」
「それ俺も見た。月が割れて落ちてくるって」
「ぶつかるのは一年後とか一ヶ月後とか、ネットじゃいろいろ言われてるね」
「もうすぐ東京ドームでLocoのライブがあるんだよ。大丈夫かな」
小惑星が落ちてくるというのにライブどころじゃないだろう、というツッコミは無用だ。誰も信じていないし、単に大きなお祭りみたいに楽しんでいるだけだ。
朝のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。
「おはよう。みんな席着けー」
滅亡の予兆などまったく感じさせず、普段どおり平和にホームルームがはじまった。まあそうだよなあと、ぼくは頬杖をついて担任の話を聞く。小惑星衝突なんて大事件がそうそう起きるはずがない。衝突したとしても、きっとたいしたことにはならずに終わる。
そうしてこの先も、ぼくの平穏で絶望な人生は続いていくのだ。
溜息が洩れてしまい、ぼくは小さく頭を振った。昨日がなかなかハードだったので、気持ちが落ちたまま戻りきらないでいる。こういうときこそユーモアと妄想を忘れるな。
ぼくは羊の皮をかぶった獣。
いつかもこもこのウールを脱いで、荒野を駆ける獣になる。ははは。
今日は珍しく平和に終わった。いじめの現場を藤森さんに目撃され、さすがに井上たちもバツが悪いのだろう。テンションも復活した放課後、ドラッグストアに寄ってスナック菓子と薔薇の香りの柔軟剤を買った。これで藤森さんのハンカチを洗おう。悲惨な経緯でぼくの元にやってきたハンカチだが、返すときのことを妄想すると心が落ち着かなくなる。
――わざわざ洗ってくれてありがとう。いい匂いね。
――藤森さんには薔薇が似合うと思って。ぼくのほうこそありがとう。
――ううん、わたしも前に江那くんに助けてもらったし。
見つめ合うぼくたちの間には、今までにない甘い空気が漂う、という互いの性格まで改変された藤森さんとぼくのセカンドラブストーリー第一話に没頭していると、
「わたしたち、死ぬのかな」
という女の子の甘い声が聞こえた。電車の向かいの席に座っている大学生らしきカップルが、周りに見せつけるように身体をくっつけている。死という言葉を口にしながら、ふたりの頬は生を謳歌(おうか)しているかのように紅潮し、活き活きと小惑星衝突について話している。
「最期のときも一緒にいようね」
「当たり前だろう。死んでも離さないよ」
今にも唇が触れ合いそうな至近距離でふたりは囁(ささや)き合う。ふたりの隣に座っているサラリーマンも、反対隣の子供連れのお母さんもしょっぱい顔で明後日の方向を見ている。
――最期の瞬間まで、幸せでいいですね。
こういうとき、ぼくはできるだけ柔和な表情を心がける。脳内お花畑なカップルに余裕を見せることで、なにひとつ煌めかない自らの青春を客観視できているクールなぼく、という内部複雑骨折的な方法で自身のプライドを救っているのだ。こじらせている、とも言う。
けれどその夜、お花畑な恋人同士、クール気取りでこじらせているぼく、一日の労働を終えて恒例の晩酌を楽しむ母親、薔薇の香りを漂わせて干されているハンカチ、それらをまとめて嘲笑(あざわら)うかのような、この世の灯火(ともしび)をすべて吹き消す重大ニュースが全世界を駆け巡った。
一ヶ月後、小惑星が地球に衝突します。
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