病室で、妻・ますみさんに体を拭いてもらう信輔さん(撮影:石川正勝)

大黒柱というよりムードメーカー

 僕にとってますみは、人生においての羅針盤みたいな人。どちらに進むべきか悩んでいる時、「こっちじゃない?」と、ポンと言ってくれる。これまでも大きな岐路に立った時、ますみの言葉通りの選択をして間違ったことは一度もない。だから病気がわかった時も、ますみの言葉が救いになった。

 息子が3人いるけど、笠井家の長男はあなた。そんなところで、どうでしょう。

 ハイ、いいと思います! 僕はいわゆる大黒柱タイプではない。「みんなで楽しくやっていこうよ」という感じだから。

 家族のムードメーカー、昔からですね。

 そうだね。出会ったのは、忘れもしない大学3年の3月。アナウンサーになるための春期講習会で同じクラスになったのがきっかけだったね。

 教室でパッと会った瞬間、「この人は絶対にアナウンサーになって、いい働きをするようになるだろうな」と思ったことを今もよく覚えています。

 僕は口から生まれてきたような人間なので、あの手この手で口説き落として(笑)。フジテレビに入社して4年目に結婚した。

 私が25歳で、あなたは27歳になったばかり。私は3人子どもを産んだけれど、母、友人、会社の人の助けで仕事を続けることができました。

 ますみもテレビ業界にいるから、僕の仕事についてもよくわかる。入社当時『オレたちひょうきん族』が大当たりしていて、フジテレビはバラエティ路線絶好調の時代。自分もその波に乗りたいと思っていたら、「浮かれているんじゃありません。これはあなたの人気ではなく、番組の人気です。そこに寄りかかるのではなく、自分に向いている報道や情報番組に舵を切り直さなくてはダメ」とハッキリ言ってくれた。

運よく情報番組の担当になったので、とにかくがむしゃらに働いて、その後ニュースに異動してメインキャスターにもなれた。好きな仕事をいろいろさせてもらえたよね。ところが2年くらい前から、若手のアナウンサーを前に出してほしいと会社から言われ、後輩の育成に回るようになり――。自分の限界というか、会社における自分の役割は終わってきたな、と感じ、大海原に出ていかなければ活路が見いだせない、と。それでフリーになりたい、と言った時も……。

 私は、「いいんじゃない」。

 そして、ますみは続けて「5年遅かったけどね」と言ったよね(笑)。とにかく、清水の舞台から飛び降りる気持ちでフリーになるしかない、と。ところが飛び降りて着地しようと思ったら、がんになってしまった。それだけに余計ショックが大きかったんだ。