近衛前久が生まれたのは、このような時代だった。近衛家当主としては、もっとも不遇の時代だったといえるかもしれない。しかし、結果的にみると、前久の誕生前後、16世紀の30年代は、戦国時代を大きく画す時期となった。というのは、1530年代になると、天下一統世代ともいうべき、のちの天下一統にかかわる人物が次々と誕生するからである。

京都の近衛邸跡。桜の名所でもある(写真提供:写真AC)

天下一統世代と深い関わりをもつ

たとえば、享禄3年(1530)には上杉謙信、天文2年(1533)には島津義久、同3年には織田信長、同4年には島津義弘、同5年には豊臣秀吉(6年とも)・足利義輝、同6年には足利義昭、少し遅れて徳川家康が天文11年、本願寺の顕如光佐が同12年に生まれている。

彼らが誕生した1530年代は、群雄割拠状態のなかから強大な戦国大名が成長する時期であった。やがて永禄年間(1558~70)ともなると、国単位の規模にまで拡大した戦国大名の領国は境界を接するようになり、強大な大名たちが天下一統をめざしてしのぎを削るようになる。そして、そのなかから、信長・秀吉・家康という三人の天下人が生まれ、この三人の天下人の覇業に、上杉謙信、島津義久・義弘兄弟、足利義昭、顕如光佐らがからまって、世は近世へと移行していくのである。

ここに天下一統世代としてあげた人物は、すべて近衛前久が直接的にかかわりをもった者たちである。前久は天文5年にまれ、慶長17年(1612)に没した。その間76年、歴史の表舞台では次々と主役が交替していったが、前久はそれを観客として見ていようとはしなかった。中世から近世への未曾有の激動の渦中へ、彼も身を投じたのである。近衛前久は激動に押し流されるのではなく、激動の行方を座して見ているのでもなく、その渦中で激しく人生を燃焼させる、そんな道を選んだのだった。

写真を拡大 近衛家略系図