彼は越後・関東・摂津・丹波・南九州・奈良・三河など各地におもむき、その青年期・壮年期のかなりの歳月を在国のうちにすごした。ただし、前久の場合、他の公家たちのケースとは少し様子がちがっている。前久の場合、政治的な問題、すなわち天下一統過程にあらわれたその時々の武将との関係で在国したケースが多い。彼の人生に「流浪」という言葉があてはまる所以である。

「流浪」という言葉は、単に地理的なことをいっただけではない。彼は政治的な立場で多彩な人物とかかわった。激動に流されることなく、主体的に歴史に参加するためには、武将たちとかかわる以外に道はない。前久はそう考えた。その考えにしたがって、彼は積極的に武将たちとかかわりをもった。それは、ある時は友好的であり、ある時は敵対的であった。その武将のもつ権力がどの方向を向いているのか、前久にも不安があり、自分の行動に対して自問自答することもあったことだろう。そうしつつ彼は、武将とかかわり続けたのだった。

前久を「流浪」の戦国貴族と呼ぶのには、彼の精神あるいは意思あるいは思想といったらいいだろうか、そのような彼の内面にあるものの彷徨の意味をも込めている。

前久は衰えゆく公家社会に生きることをいさぎよしとせず、武家社会へと足を踏み入れていった。彼は武家になろうとした。そして、流浪したのだ。