※本稿は、評伝『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)の一部を、再編集したものです
古関裕而と古賀政男の出会い
古関裕而が古賀政男と最初に会ったときは、まだ専属の作曲家ではなく、コロムビアの社員であった。レコード吹き込みのタイムキーパーを担当し、古関の作品にも立ち会っている。
古関は、「時折、うす暗い地下食堂でお茶を飲みながら互いに励まし合い、将来を夢みたものだった。彼は社員としてのかたわら盛んに作曲もやっていた」と、昔を振り返る。お互いに作曲家として売れることを夢見ていたのである。
明治37年(1904)11月18日に福岡県三潴郡田口村(現在の大川市)で生まれた古賀は、幼少期に父を失い、少年期に長兄の商店を手伝うため朝鮮半島に渡るなど、古関とは対照的に貧しく辛い生活を送ってきた。音楽学校への進学を夢見たが、明治大学商学部へ行くこととなった。しかし、天性の音楽センスは、古賀が創設した明治大学マンドリン俱楽部でも発揮された。昭和4年3月の卒業後に、コロムビアから声がかかり社員となった。流行歌の作曲家のノルマは、いかにヒット曲を生み出すかである。天才的な感性を持つ古賀は、コロムビアの重役たちが驚くほどの活躍を見せる。
当時はオリコンのようなシステムはなく、流行歌の正確な売り上げ数はわからない。どの曲がヒットしたのかがはっきりわかるのは、内務省が昭和13年2月に取り調べた「売上実数ヨリ見タル流行歌「レコード」ノ変遷」という史料である。そこには昭和3年9月から昭和13年1月までの間に10万枚以上売れた流行歌が記されている。
これを見ると、古賀は約2年間のうちに8曲で71万枚という好成績を残していることがわかる。そのほかにも、10万枚には至らなかったため売り上げ実数はわからないが、昭和6年6月の藤山一郎(柿澤勇人演じる山藤太郎のモデル)の「キヤムプ小唄」や同8年3月の松平晃「サーカスの唄」など、後年の懐メロ番組で取り上げられる名曲を生み出した。
表)古賀政男のコロムビアヒット曲
古賀の悲しく廃頽的なメロディーは、あっという間に国民の心をつかんだ。当時は、昭和恐慌と呼ばれる慢性的な不況下にあり、とくに地方農村部では生活に困窮する家庭も少なくなかった。古賀の楽曲は、そうした暗い世相のなかで歓迎された。その心地よいメロディーは、古賀メロディーと呼ばれ、後年には流行歌の生みの親とまでいわれるようになる。