昭和7年夏、コロムビア楽人倶楽部にて。上段左から2人目が古関、下段左から3番目が古賀政男

レコードも発売前に内務省の検閲を受けることに

流行歌の王者である古賀政男は、昭和9年にコロムビアからテイチクへと移籍していった。レコード会社は変わっても、大ヒットを連発していた。ヒットに恵まれなかった古関とは対照的である。

表)古賀政男のテイチクヒット曲

 

治安や思想を監視する内務省は、流行歌がたくさん作られるようになると、その内容や影響力に注意するようになった。レコードの取締りは、昭和8年10月に治安警察法第16条の「安寧秩序ヲ紊(みだ)シ、若(もしく)ハ風俗ヲ害スルノ虞(おそれ)アリト認ムルトキハ、警察官ニ於テ禁止ヲ命スル」という基準で全国的に行われた。翌9年8月1日施行の改正出版法により、レコードも出版物と同じように、発売前に内務省の検閲を受けることを余儀なくされた。

そして、昭和11年12月に発売された古賀作曲の「あゝそれなのに」(作詞・星野貞志)は、ちょっとした騒動となる。

家の留守を預かる妻が会社勤めの夫を気遣っているにもかかわらず、帰宅が遅いものだから、外で浮気でもしているのではないか、と怒るものである。何が問題になったかといえば、歌詞のなかにある妻が夫に向かって「ねぇ」と語りかける対話調であった。

そこにレコードの内容を検閲審査する内務省警保局が目をつけた。「あゝそれなのに」は発売禁止や改訂盤を出すことは免れたが、販売促進を目的とした宣伝中止を余儀なくされた。

流行作曲家の使命は、とにかくヒット曲を生まなければならない。古関は「巷には、エロ・グロ・ナンセンスなどの言葉が流行し、またそれらを題材とした流行歌が氾濫した。若い私にはこの種の世界が馴染めず、作曲もやりにくかった。ディレクターから「もっと社会見学をしなくては」と、しきりに言われたが気も進まず、自分の手がけられる範囲のものだけをコツコツと作曲していた」と述べている。古関の音楽センスからして、売れ筋とはいえ廃頽的な「ねぇ小唄」は書きたくなかったのである。
 

古関裕而・金子夫妻(写真提供:古関正裕さん)
古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル