NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』で本郷奏多が演じる若き関白・近衛前久(このえ・さきひさ)。公家でありながら自ら政治に介入する、変わり種の貴族として描かれている前久は、実際はどのような人物だったのか。 前久の生涯を紐解いた『流浪の戦国貴族 近衛前久―天下一統に翻弄された生涯』の著者・谷口研語氏が、乱世のキーマンとなった前久を「流浪の戦国貴族」と称する理由は――。

※本記事は、谷口研語さんの著書『流浪の戦国貴族 近衛前久―天下一統に翻弄された生涯』(中公新書)の一部を再構成したものです。

幕府あっての朝廷という時代に公家に生まれ

近衛前久は関白太政大臣近衛種家の長男として天文5年(1536)に生まれた。母は久我通言の養女源慶子。元服して晴嗣、ついで前嗣、前久と称し、のち出家して龍山と号した。彼は五摂家(摂関家)筆頭近衛家という公家社会最高の家門に生まれ、みずからも関白あるいは太政大臣という公家社会最高の官職に就いた。

平安時代の半ばに藤原氏が朝廷中枢を独占し、摂関政治の時代と呼ばれる一時期があった。藤原氏の北家良房流が、外戚として天皇を補佐する地位、すなわち摂政・関白に就くことで成立したのが摂関政治である。

この藤原摂関家の嫡流が、鎌倉時代、近衛・九条・鷹司・一条・二条の五家に分離した。これが五摂家といわれるもので、以後、摂政・関白という公家社会最高の官職には、この五家がもちまわりで就任し、これ以外の家が就任することはできなかった。その五摂家の本家が近衛家であり、五摂家筆頭近衛家の第16代当主が前久である。

『流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯』(谷口研語:著/中公新書)

もっとも、関白だ五摂家筆頭だといったところで、前久が生まれた戦国という時代には、それほど大層な意味をもっていたわけではない。

東国の鎌倉に源頼朝の武家政権が誕生して以来、すでに三百数十年、朝廷は徐々に政治の実権をを幕府に奪われ、あえてそれを政治というならば、室町時代の「朝廷政治」は、元号制定や叙位任官、それに寺社関係など、総じて儀式典礼にほぼ限定されていた。しかも、それらわずかにのこされた「朝廷政治」さえも、ほとんどの場合、その費用を幕府に頼らなければならなくなっており、幕府あっての朝廷という状態になり下がっていた。