インパール作戦中のビルマへ

戦地で恩師に再会した史実はないが、古関は実際にインパール作戦中のビルマを訪れている。

インパール作戦では、ビルマの防衛線を広げてインパールを占領し、イギリスが中国軍へ物資などを援助する「援蒋ルート」の遮断を目指した。しかし、この作戦は、2000から3000メートル級の山岳地帯を、100から200キロにわたって進軍し、兵站部隊の不足は現地の人、象、牛、馬などで補うという過酷なものであった。

『古関裕而 流行作曲家と激動の昭和』(刑部芳則・著/中公新書)※電子版もあり

インパール攻略には三個師団が投入されたが、それを総括指揮したのは、第一五軍司令官の陸軍中将牟田口廉也である。彼は日中戦争の開戦となった盧溝橋事件のときの支那駐屯歩兵第一連隊長であり、武断派として知られた。この作戦計画に自信を持ち、昭和19年4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)までにインパールを陥落させることを予定した。

大本営はインパール作戦の特別報道班派遣を企画し、文壇から火野葦平、画壇から宮本三郎(病気のため向井潤吉が出発)、楽壇から古関裕而を選んだ。派遣の目的は、「インパール攻略戦に従軍しまして、その印象をすぐ内地へ帰つて、一般国民に伝へる」ことであった。

このとき古関は行きたくなかった。福島に残した母ヒサ(菊池桃子演じるまさのモデル)は女中と二人で暮らしていたが、前年から中風で寝たきり生活であった。妻の金子が福島で世話をすることになれば、東京で生活する娘ーー12歳の雅子と10歳の紀子はどうなるのか。

古関の母、ヒサ(写真提供:古関正裕さん)

そうした心配が、これまでの従軍慰問(史実では以前にも中支那派遣軍や南方慰問団派遣員として従軍している)とは違って意欲を鈍らせたのである。しかし、本人が重病でない限り、辞退は認められなかった。気丈な妻の金子は「仕方がありません。きっと元気に帰られますよ」と励ました。