「2つのルーツがあることで、価値観や暮らしのスタイルもそれぞれ違って当たり前ということを幼い頃から自然と感じていたので、貧しさに対しても、人より寛容になれるんだと思います。」

 

――「いじめ」にあっただけでなく、以前、出版されたフォトブック『ありのまま。』に、小学校高学年の頃から、実家が経済的にかなり苦しくなったとも書いておられましたが。

秋元 うちの父はフーテンの寅さんのような自由人だったので仕事が続かず、羽振りがいい時もあれば悪い時もあったんです。そのぶん、母が夜の店で働いて家計を支えていたのですが、年齢が理由で接客業の仕事をクビになり、経済的にどんどん苦しくなっていったんです。私が中学に上がる頃には、家のガスや電気が止められたこともありました。

 

――つらくはなかったのですか?

秋元 さすがに、冬場にガスが止められた時はきつかったですね。でも、フィリピンの暮らしに比べれば、日本はラクだなって。子どもの頃、毎年、春休みにフィリピンのカモテス諸島というところにある母の実家に里帰りしていたんです。現地では島じゅう停電になることがよくありました。でも、たとえ電気が止まっても、フィリピンの人たちは夜空の星を見上げてのんびり楽しんでいた。

うちも、日本の中では貧しかったけど、そのくらいのお金でも、フィリピンに帰ればお金持ちなんですよ。子どもの頃、服はいつもフリマで200円とか300円で買っていましたけど、それで十分こと足りていた。フィリピンではもっとボロボロの服を着ている子もいますからね。

日本では当たり前のことが、フィリピンでは当たり前じゃない。反対に、フィリピンでは当たり前のことが、日本では当たり前じゃない。2つのルーツがあることで、価値観や暮らしのスタイルもそれぞれ違って当たり前ということを幼い頃から自然と感じていたので、貧しさに対しても、人より寛容になれるんだと思います。

 

――中学に上がる時、制服を買うお金がなくて、お父さんがロレックスの時計を売って制服を揃えてくれたこともあるそうですね。

秋元 それ、いまだに文句を言われる(笑)。その時のお金、とっくに父に返したんですけどね。まあ、そんな状況でしたけど、家族で銭湯に行ったり、たまに父がステーキ食べ放題のお店に連れて行ってくれたりと、貧しいなりに、うちの両親はいいお金の使い方をしていたと思います。

貧乏にしてもフィリピン人とのダブルであることにしても、周囲から異質だと思われていても堂々としていようと、私もかなり早いうちから吹っ切れていたので、意外と平気でしたね。