郵便馬車から高原列車へ

そして、古関の音楽活動はますます旺盛に展開されていった。代表曲のひとつ「高原列車は行く」の誕生したのも、この頃だ。

昭和26年12月に発売された「あこがれの郵便馬車」は、作詞家の丘灯至夫(おか・としお)と歌手の岡本敦郎とのトリオによる最初の乗物作品となった。馬車の動きを思わせる伴奏で、歌唱と伴奏のかけあいが曲全体をひきしめる。

1952年頃の古関一家(写真提供:古関正裕さん)

福島県郡山出身の丘は、西条八十に弟子入りし、本名は西山安吉という。古関とは昭和11年からの知り合いで、終戦末期に毎日新聞社の記者をしていた頃は、古関の福島の家を借りて住んでいた。古関の妻が腸チフスで倒れた際、そのとき福島放送局を介して古関に知らせたのは西山であった。丘灯至夫(昭和32年まで丘十四夫)というペンネームは、「新聞記者は押と顔がきく」というのを逆に読んで「おかとしお」にしたという。

ところで、郵便局が各家庭に郵便物を配布する郵便馬車というものは存在せず、明治時代に局の間を輸送するのに使われていた。その事実を古関が知ったのは、昭和50年に東京中央郵便局の一日局長を務めたときであるという。歌詞は、丘が外国をイメージして創作したメルヘンの世界である。

昭和28年7月にはラジオ歌謡から古関作曲の「みどりの馬車」が生まれた。NHKのラジオ歌謡は、子供にも安心して聴かせられる明るくて健康的なものであった。古関が生み出す乗物シリーズは、ラジオ歌謡のイメージに合っていた。昭和29年2月には「高原列車は行く」が発売されている。