『魯肉飯のさえずり』(温又柔:著/中央公論新社)

個人でいさせてもらえないことが問題

 『魯肉飯のさえずり』では、日本社会の《普通》と呼ばれる世界を象徴する存在として、桃嘉の夫・柏木とその家族を書きました。

田中 桃嘉が作った魯肉飯(台湾風の豚肉煮込みご飯)に、「こういうの日本人の口には合わないよ。ふつうの料理のほうが俺は好きなんだよね」と柏木が言う場面がありましたね。

 柏木は「自分にとってのあたりまえが誰にとってもあたりまえなのだ」と信じて疑わない人間として描きました。いや、疑わずに済む人間と言ったほうがいいのかな。だから自分の口に合わないと言えばいいのに、日本人の口に合わないと言ってしまう(笑)。母親が台湾人だからといって桃嘉が台湾人を代表しているわけでもないのに。

田中 そうですね。

 実は私も子どもの頃から「台湾人としてどう思う?」と言われることがよくありました。日本にいると日本人でないことはめずらしいせいか、いつのまにか台湾を代表させられるんです。本来、人間は自分しか代表できないはずなのに。お願いだから、国を背負わせないで、個人でいさせてと思ってしまう。

田中 「〇〇人は」のような大きな主語は、なにか問題が発生した時に「だから〇〇人は」などと、悪く作用することがありますね。

 そうなんです。「〇〇人」と言っても人によって全然違うのに。いろいろな日本人がいるのと同じですよね。そのことで言えば、日本人とは、日本人の両親がいて日本国籍を持ち日本語を話す人のことで、その条件が一つでも欠けていたら、日本人として完璧ではないと思っている「日本人」はいまだに多い。たとえば私が「温です」と名乗ると、「日本語がお上手ですね」と言ったり。まあ最近は、そう言われたら「あなたも上手ですよ」と返すんですが。(笑)

田中 あはは(笑)。「普通」とか「日本人」の概念を更新していかないといけない。

 だから『魯肉飯のさえずり』では、こんな日本社会で、自分のことを疑うことなく、自分を普通だと思っている人として、柏木という人物を造形したんです。

田中 なるほど。これからどうやったら、柏木の世界と桃嘉や雪穂の世界が交わるのかな、と物語の先も考えてしまいました。