「いやあ、片付けたいねえ」

「片付けたいですなあ」

日本語は主語を端折るので、まるで掃除の話でもしているように聞こえる会話だが、当時はこんな言葉が横行しても「女性に対する侮辱だ」などと声をあげる人もいなかった。しかし、私の母のような女にとっては、女が誰しも結婚という形で《片付けられる》のは、受け入れがたい日本社会の側面だったはずだ。

彼女は私が幼い頃から「結婚なんかあてにするな。まずはひとりで生きていけるようになりなさい」だの、全く夢も希望もない結婚観を説き続けてきたし、未婚でシングルマザーとなった私がのちに結婚を決めた時も、「精神的にも経済的にもひとりで生きていける自信がついた後の結婚のほうが気楽。理想や妄想で象(かたど)らない分うまくいくはず」と楽観していた。

私は自立を志す女性の第二世代ということになるが、実は欧米でも私のような第二世代はそう多くはないし、ましてや第三世代に値するような人はもっと少ない。イタリアも、北部であればたくさんいる第二世代も、南部へ行けば保守的な女性観をいまだに維持し続けている女たちも少なくない。

ちなみに、2019年の世界におけるジェンダーギャップ指数(男女の格差を分析した指数)で日本は153ヵ国中121位。当然、先進国で最下位だ。小津安二郎が1920年代から撮り続けてきた映画に表れる戦後の女性の意識の進化は顕著だが、それでも彼は最後の作品まで結婚に落ち着く女性にこだわり続けた。

政治も教育も社会そのものが西洋化を進めてきている日本ではあるが、果たして西洋式な女の自立や強さが完全に馴染む日が来るのか。コロナ禍に生まれた思索の時間は、私にそんなことを日々問いかけてくるのだった。