「ところであなたはどちらさま?」
翌日からまるで推理小説の謎解きのように、次々に事実が判明していった。担当医が言う。「黒田さん、申し上げにくいのですが、横浜の奥様にお目にかかりました。どうやらあちらは黒田さんのことをご存じないようです。とにかく一度連絡をくださいとのことですが……」。
ICUで横たわる夫に目を落としたが、私たちのやり取りは理解しているはずなのに何も言わない。だが、今ここで問い詰めるわけにもいかないだろう。
「病院で聞きました、中野の黒田です」「ああ、連絡をお待ちしていました。ところであなたはどちらさま?」「本当に私のことをご存じないのですか。ご主人は26年間ずっと、週末はそちらにいなかったはずですが」「ええ、そうですね。あの人は金曜日になると決まってどこかに行ってしまって。昔から仕事で北海道だ、九州だと、平気でふらーっと1週間くらい留守にする人でしたから。私も『そうですか』という感じで、50年やってきました」「そんな……。ご主人は週末は中野で暮らしていたんです。では娘のこともご存じないのですか。今年26歳になります」「なんですって? 私知りませんよ。あなたのことも、ましてや娘さんのことなんて。本当に主人の子なんですか」
ああ、なんてことだろう。私と娘は、幽霊のように26年間まったく存在を知られていなかったのか。 娘が生まれた時、「せめて認知届を出したい」と夫が言ったので、2人で区役所に行った。「戸籍を変更することを、彼女は知っているのですか」と聞くと、「『そのへんの男がするようなことはするな』と言われたから、子どもはきちんと育てる」。たしかにそう言ったのだ。だから私は、長年向こうの家族も知っているものと思っていた。
2つの家族がやり切れない思いを抱きながら、病院の狭い個室で向かい合う。体調が回復し、一般病棟に移った夫の経過報告と、退院までの見通しを平等に説明するという担当医の配慮だった。私はやけに冷静で、正妻が刺すような視線でこちらを見ているのがわかる。「この子が夫の娘」、そう心の中で繰り返しながらにらんでいるように見えた。
赤い爪、きれいにカットされた髪、紺色のカチッとしたパンツスーツ姿でエナメルの靴を履いていた。正妻の隙のない風貌が、まるで「私が正義よ」と主張しているようだった。ふと自分の手元に目を落としてみる。ひとまわり若い私のほうが、よっぽど荒れた手だ。週の半分は時給でパート勤めをし、夫から渡される生活費は、将来娘に迷惑をかけぬようにと貯蓄していた。