信長は光秀を信頼しきっていた

――まず、光秀の主な戦績を教えてください。

福島 近江(滋賀県)北部における浅井氏との戦い、丹波攻略、大坂本願寺攻めの3つが挙げられると思います。このうち、丹波攻略の八上城攻めが彼の生き方を大きく変えたと思います。

 

――丹波攻略における苦闘は、ご著書『明智光秀』の大きな見所だと思いました。武人としても優れていた光秀ですが、一般の人は「本能寺の変を起こした人物」というイメージしかないようです。

福島 今回、改めてそのイメージの強さを思い知らされました。言い換えれば、光秀そのものについては意外と知られていない、関心が低いと思いました。本能寺の変を可能にした人物という視点に立てば、彼の内実を知らないと、変の要因にも迫れないと考えています。

福島さんは、新著『明智光秀』で、稀有な武将の内実を解き明かしている

――そこでうかがうのですが、副題の「織田政権の司令塔」とはどういった意味ですか。

福島 信長の身近にいながらも、巨大な権限を行使し得た部将であったと思います。天正7年(1579年)以降は、外交、内政についても活発に動いていたと思います。

 

――天正7年というと、本能寺の変の3年前ですね。信長と光秀の関係はどのようなものだったとお考えですか。信頼関係はあったのでしょうか。

福島 京都の周辺は光秀の影響下にある区域です。京都へわずかな手勢で動いているわけですから、信頼しきっていたと思います。

 

――光秀が謀反を起こした理由をどうお考えですか。

福島 四国の長宗我部氏への信長の政策の変化が起因していると思います。本能寺の変も四国攻めの直前に起こっています。あと、信長と嫡男の信忠がともに在京したという絶好のタイミングが、光秀に決断を促したと思っています。