光秀と秀吉は「似ている」?

――なぜ信長を討つことができたのでしょうか。

福島 光秀が信長の行動パターンをよく知っていた、分析していたからだと思います。特に、信長の京都への行動パターンは常に把握していたと思います。

歌川貞秀筆「足利義教公」(江戸時代後期)より

――本の帯にも使っている絵柄について教えてください。あれは錦絵ですか。

福島 「足利義教公」と呼ばれる幕末の錦絵で、浮世絵師・歌川貞秀(1807~79)の作品です。嘉吉元年(1441年)の室町幕府6代将軍暗殺(嘉吉の変)を描いていますが、絵柄を見るとどう見ても本能寺の変です。当時は信長以降の歴史を描くことが許されなかったので、義教の暗殺に仮託して描写しています。信長を、恐怖政治を敷いていた義教にあてるなど、皮肉が効いています。

 

――光秀は、本能寺の変後の山崎合戦で、羽柴秀吉と雌雄を決しました。対照的な性格と描かれることの多い光秀と秀吉が「似ている」と本文中でお書きで、非常に意外でした。

福島 結局、信長に登用された部将たちは、一から兵や軍事物資を集め、国衆たち(在地勢力の武士)の信頼をつなぎ止めるような人物でないと務まらなかったでしょう。大なり小なり「人たらし」のような部将たちになったと思います。その点、光秀と秀吉は似ていたと考えています。

 

――そういうことですか。光秀の人となりがわかるようなエピソードがありましたら。

福島 天正3年(1575年)5月の坂本城(滋賀県大津市)における島津家久(のちの薩摩藩主とは別人)への饗応の場面です。彼がいかにもてなし好きであったかがよくわかります。魅力的な人物だったと思います。

 

――最後に、今後の取り組みのご予定をお聞かせください。

福島 丹波・山城(京都府南部)における国衆たちの動向について考えてみたいと思います。あと、彼が城を築いた坂本や亀山(京都府亀岡市)という都市について、もう少し内実を明らかにしたいと考えています。


(「web中公新書」より)