多くの恋愛はその顔だけで行われている

殊に現代の恋愛の動機は、ほとんどすべて容貌風采、態度、社会的位置、そんな外面的なものに限られている。多くの青年の中でも才子で、美男で如才のない男が多くは、恋愛の勝利者である。こうした男は多くは軽薄で、オッチョコチョイである。

才色双絶の佳人が、いい加減な軽薄才子と恋愛をしている。恋愛の場合多くは駿馬が痴漢を乗せて走っている。

もし、恋愛を人生の重大事とすれば世の中は浮薄な好男子や、男を知る明(めい)のない美人だけの、天国になってしまうではないか。

恋愛が人生において重大なものとするならば、人から愛せられる資格のない醜い男や女は、人生の重大事から疎外されてしまう事になるではないか。

トルストイの母が、少年時代のトルストイに対して「お前はおとなしくしなければいけないよ。お前はその顔だけでは誰も可愛がってくれ手がないんだから」と言った。多くの恋愛はその顔だけで行われている。

 

「恋愛雑感」が掲載された『婦人公論』1924年(大正13)8月号の表紙

 

無論すべてがその顔だけで行われているとは言わない。中にはその顔だけで始まってお互いの魂の深い所まで行って結びつく恋愛もあるだろう。だが、多くの恋愛は大抵は顔だけから始まっている。外面的な皮相から始まっている。その為に、美しいと思った皮相の下に、かさかさしたがさつな魂を発見して、失望し青春時代を間違った恋愛に、つまらなく過ごした事を、後悔する者が幾人ある事だろう。大抵の恋愛が人間的美しさや、心の清さで始まらないと言う事は、恋愛の価値を半減している。何となれば、外面的な美しさに迷わされて、自分の心の相手、魂の同伴者を見つけ損う者が幾人あるかもしれない。恋愛が心や魂の美しさから起こり、そうしてこの女でなければならない女と、この男でなければならない男とを結びつける力であったならば、恋愛は人生に取って一番貴い動因に違いない。だが、恋愛はただ外面的な要素から起こって、ただ男性と女性とを結びつければそれでいいんだ。