日本航空に31年間つとめた大先輩
スチュワーデス一期生の金林政子(旧姓伊丹)に会ったのは、渋谷の日本料理店である。政子は1年に何回かは日本航空の後輩たち数人と会食の機会をもつ。この日も39期、47期生、破綻によって退職となった400期代の年若い3人の後輩たちと会う日だった。
政子も悠子同様、昭和3年生まれで80歳を越えていたが、足元を見ると靴はピンヒールである。すでに高いヒールの靴をはかなくなってしまったわたしにとっては、その年齢でヒールの靴を毎日はいているということは驚異だった。長く社交ダンスを習っていて、いまだに気力体力知力ともに充実している様子が、その声の張りや大きさからもうかがえる。バイタリティ溢れるこの先輩は、20代のときにはどんなに溌剌とした、輝くような女性だっただろう。
「わたしは14年間飛んでいました。35歳で職場結婚、38歳で出産して退職したけれど、数年後にふたたび日本航空に戻ったわ。訓練所で着物の着付けなどを教える教官として17年間。結局、日本航空には出産をはさんで31年間つとめていたことになるの」
それほど長い日本航空勤務の端緒となるエアガール募集に応募したころのことについて問うと、即座に答えが返ってきた。
「じつは日本航空のエアガール募集を知ったのは、応募締め切りの当日のことだったの」
つまりそれは、昭和26年8月2日ということになる。
そのころ政子は銀座にあるサヱグサに勤務していた。エアガールという仕事が、実際にどういうことをするのかはよくわからなかった。
「けれど、サヱグサにお勤めするよりも高給を得られると思ったの」