「車の鍵を取り上げろ」

それからは、私の家から、実家に頻繁に通う生活が始まった。高速道路を走り、往復3時間。80代の認知症の人間の一人暮らしは危険極まりない。私の家族と一緒に暮らそうと言ってみたが、父は、この家で暮らすと言って、てこでも動かない。仕方がなかった。

当時、私の夫は、私が実家に通うことを嫌がっていた。父の状況を知っているのに、「海外にいようと、お義父さんのことはお兄さんの役目でしょ。だから僕は、男きょうだいのいる君と結婚したんだ」と何度も言われた。しかし実家のことは、私が頑張るほかはなかったのだ。

まずは、80代の父に車の運転をやめさせようと思った。何度言っても聞かないが、父を交通事故の加害者にするわけにはいかない。兄がメールで「車の鍵を取り上げろ」と言ってくる。自分はできもしないのに、私に命令するのは平気なのだ。父は、ふだん長いリボンがついた車の鍵をポケットに入れていた。

ある日、椅子に座っていた父の背後からこっそり近づいて、ポケットからリボンごと鍵を抜き取った。慌てふためき叫ぶ父。運転歴は半世紀をゆうに超える父から、その自由を奪い取った申し訳なさ以上に、私にされるがままで抵抗できずにいた父の姿に涙が止まらなかった。

その後はしばらく、「鍵返せ」の繰り返しだったが、やがてピタリと言わなくなって安心していたある日のこと。実家に行くと車庫のシャッターが開いているのに気がついた。

その時だ。ものすごい音がして車が壁に激突した。慌てて駆け寄ると、父は茫然自失状態。かつて紛失していた鍵を偶然見つけ、それで運転を再開していたのである。さいわい怪我はなかったが、車を修理に出さなければならないし、このことを兄に知られたらどれだけ怒られるか。車は兄の名義だからなおさらだった。

思ったとおり、兄は激高した。

「お前、鍵は取り上げたんじゃなかったのか。すべてお前の責任だぞ」