有意義でなければ余生とはいえない

ほとんどの男が、なぜか妻よりも自分のほうが先に死ぬと思っているらしい。妻に先立たれることなど考えていない。自分が先に死ぬというのは年齢順による思い込みであろう。妻に先立たれる。突然の場合もあれば、ある程度予測できる場合もある。

前者の場合は事故や急病である。覚悟をする間がない。後者はある程度の覚悟をすることができる。がんなどに取りつかれて余命を宣告されたときである。

「おまえが居なくなったら生きている意味がない」などと、悲劇の主人公気取りになっている場合ではない。残された時間は限られている。懸命になって、ひとりで生きていく方法を模索しなければならない。認知症になる前に準備は必要だ。

今まで、妻に任せきりだった洗濯や、掃除など家事全般を覚える。重要な書類や有価証券、印鑑、通帳などの保管場所の確認をする。日常生活に必要なものすべてを把握して備える。準備をしているうちにひとりで生きていく覚悟もついてくる。

今は、寿命が延びたので誰にでも余生があり、誰もが老後と向き合わなければならない。しかも、その余生が、60歳定年でもっとも標準的な社会人人生を過ごしてきた人でも、20年以上もある。もはや、余生そのものが、重要な「人生の課題」になってしまったのである。

余生は余った人生ではない。何年間生きたかではなく、人間としての生きる時間が引き延ばされたものである。ただ生きているのではなく、有意義でなければ余生とはいえない。