悠長なことを言ってはいられない。柔軟体操なんだから

人付き合いは柔軟体操のようなもので、頑張ればある程度まではできるようになる。しかし、不安定な双方向コミュニケーションは面倒極まりないため、柔軟体操と同じく習慣になるまでが難しい。やらなければすぐに元に戻ってしまうのも柔軟体操に似ている。

身体が硬くても若いうちは困らないが、中年以降は怪我のもとになる。それと同じで、人付き合いを避け続けていると、年を重ねてから孤独を持て余し、心が大怪我をする羽目になる。そういう話を聞き始めるのは40代後半から。

孤独は死なないペットのようなもので、飼いならすのは本当に難しい。アマゾンに生息する蛇なんかの比ではない。孤独が望む通りに面倒を避け人付き合いを減らしても、孤独を太らせるだけだ。そうなると、飼い主である自分の心がやせ細っていく。孤独とベッタリの生活では身を滅ぼす。

環境が変わればどうしたって人間関係も変わるのだから、ある程度は絶えず新しい付き合いを模索していくのが妥当なのだろう。「人付き合いが苦手です」なんて、悠長なことを言ってはいられない。柔軟体操なんだから。

難しい問題もあり、人といれば孤独が癒やされるわけでもない。必要なのは他者や場に受容されること。これには縁と運と時間がいる。しかし、家でひとり籠もっていたら、箸にも棒にも掛からない。

先日、中学の同級生が逝去した。ずっと健康だったのに、突然。お葬式では、憔悴したご両親と気丈に振る舞う奥様、残されたお子さんたちの姿に胸を痛めた。こういうことが起こる年齢になったのだ。数年前に電話で話したきりだったのが悔やまれる。

誰かの死から短絡的に有益なことを学ぼうとするのは品のない行為だと常々思っているのだが、お葬式の帰り道、毎日を悔いのないように生きねばとか、会いたい人には会いに行かなきゃとか、ありきたりなことばかりが頭に浮かんでは消えた。


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年齢を重ねただけで、誰もがしなやかな大人の女になれるわけじゃない。思ってた未来とは違うけど、これはこれで、いい感じ。「私の私による私のためのオバさん宣言」「ありもの恨み」……疲れた心にじんわりしみるエッセイ66篇