西垣さん。西部の町ヘラートで絵画制作に取り組む女性たちも支援してきた(宝塚市の自宅にて。2021年9月)

「止めても聞かない」と送り出してくれた夫

もともと厳格なイスラム社会のアフガニスタンでは、家族以外の男性と顔を合わせない女性も多く、避難民キャンプでも、男の目を避けるように、テントの外には、ほとんど出ませんでした。私は女なので、テントに入ることができました。

「男の人は職業訓練をしているけど、あなたたちはどんなことをしてみたい?」と通訳を介して聞いてみたんです。すると、彼女たちが口々に言いました。「ミシンがほしい。刺繍がしたい」。女性の民族衣装の胸元や袖には、美しい刺繍が縫い込まれています。テントの中で裁縫教室を開いてミシンで商品を作れるようになれば、自信や収入につながるのではないかと考えました。

日本に戻ると、各地で報告会を開き、寄付を募りました。新聞社に呼びかけ、「家に眠っている刺繍糸をいただけませんか」と記事にしてもらうと、大きな反響がありました。読者から続々と刺繍糸が集まり、びっくり。パキスタンの中古市場で手回しミシン30台を調達し、テントの裁縫教室が完成しました。

色とりどりの刺繍糸を手にした女性たちの笑顔は忘れられません。一所懸命に縫ってくれた刺繍布をカバンやクッションにして日本で販売し、収益を現地に届けることができました。

戦禍に苦しむ人々や、故郷を追われた難民を支援するのは、幼い頃の体験に重なったのかもしれません。私は1935年に台湾で生まれ、父の仕事の関係で、台北で育ちました。10歳で終戦を迎えると、着の身着のまま、家族4人で引き揚げ船に乗り、佐世保港に到着。日本には住む家もなく、親戚の家に身を寄せました。その時の悲しさと不安が入り交じった気持ちは、今も鮮明に覚えています。

26歳で職場結婚し、ふたりの子を育て上げました。勉強があきらめきれず、47歳で神戸大学の学士入学試験に合格し、2年で卒業。その後は半年間、英国に語学留学もしました。

だから59歳でアフガニスタンに行くと夫に告げた時、「どうせ止めても聞かない」と思ったのでしょう。何も言わずに送り出してくれました。でも、やっぱり心配だったようですけどね。渡航費用は、講演会でいただいた謝礼や、自分の貯金でまかないました。