「おまえを産んで、本当によかった」

そういう人でしたから、自分が年老いてからも、やれどこが痛いだのと弱音をこぼすこともなく過ごしていましたが、たった一度だけ、遺言めいたことをつぶやいたことがありました。

「一回でいいから、明治座の舞台に立ってから死にたいねぇ」

歌舞伎役者の聖地が歌舞伎座なら、我々大衆演劇の殿堂は明治座です。剣劇から身を立てた母にとって、明治座こそが最高の舞台でした。

――この夢だけは、なんとしてでも叶えてやりてぇなあ。

芝居に邁進した私は、それから数年後、ついに念願の明治座公演を果たします。

しかも、チケットは札止め完売。すっかり足腰の弱っていたおふくろも、満面の笑みで舞台を踏みしめました。

女形を演じる30代半ばの梅沢富美男さん。(『婦人公論 昭和60年10月号』より)

そして、千秋楽の日。万雷の拍手のなかで花道を歩いたおふくろは、私のほうを振り向いて、静かに微笑みました。

「おまえを産んで、本当によかった」

苦労して苦労して、ついにたどり着いた憧れの舞台。夢を叶えたおふくろの姿に、私もこみあげるものがありました。