表札の文字

京都嵯峨野に寂庵を結んでしばらくのち、テレビ朝日から、正月の4日に寂庵訪問の話があった。はじめて寂庵へ入るメディアという。

前夜、京都入り。雪になり、嵯峨野は白一色の世界だった。寂庵の門前に立つ。表札の文字がじつにいい。スタッフに「どなたの字?」と聞く。「今東光(こんとうこう)さんです」即答があった。

東光さんは寂聴さんがはじめて出家の意志を伝え、導師になられた年長の作家。それを改めて寂聴さんの口から聞き、出家の話へとつなげばいいとわたしは心をきめた。

法衣姿で門を出てこられた寂聴さんに、「どなたの字ですか」と聞いた。一瞬、寂聴さんの表情がこわばった。「井上光晴さんです」。

悪意はなくとも、わたしは虎の尾を踏むようなことを、再会早々やったのだ。しかし寂聴さんは一瞬のうちに笑顔に戻り、わたしを招きいれた。「噂」は聞いている。二人で『辺境』という雑誌を作って、反社会的とみられる記事を勇気をもって送り出してきた。「出家の最後を見届けたのは、この人」とわたしはひそかに思った。

1972年、澤地さんの出版記念会にて、瀬戸内さんのお話に、澤地さんも笑顔に(写真提供◎澤地さん)

光晴氏の娘さんの井上荒野さんが、寂聴さん追悼の文章を書いているのを読んだ。なにがあってもいいではないか。世間のおもわく、「想像力」の方がはるかにこわい。人を生かしも殺しもする。

小説は小説である。虚構は虚構であり、文学では当然のことだ。寂聴さんの人生の真偽など、誰が問うのか。

2015年、政府が国会に安保法案を提出したとき、たった一人、車椅子で上京され、国会前にたたれた。わたしは離れた場所にかくれて聞いていた。

さかのぼると1991年、湾岸戦争に反対し寂庵でハンストをされたとき、わたしは旅さきから薄着のまま参加した。翌朝、開け放たれて雪の降りこむ寂庵で写経をしていたら、医師が澤地のハンストは危険すぎるといったと瀬戸内さんに諭され、わたしは寂庵を去っている。

「まだ般若心経は書きかけです」

「いいの。あとはわたしが書く」

こんな写経があるだろうか。わたしは去り、寂聴さんは5日後に倒れて入院された。