時代の玉座に座った兄弟
豊崎 石原さんがそれほどの期待と信頼を得ていた背景には、当然、作家としての大きな影響力があったのでしょう。55年に「太陽の季節」で芥川賞を受賞すると同時に、石原さんは時代の寵児として脚光を浴びるようになった。当時の世の中に与えた影響は60年近くたった今から見ても、かなり強烈なものだったと想像します。弟の裕次郎さんとともに、“時代の玉座に座った兄弟”という印象だったのでしょうね。
栗原 「太陽の季節」には、湘南でヨットに乗りナイトクラブで夜遊びをするという、消費社会を背景とする贅沢な風俗が描かれていて、登場人物たちは戦後の新しい価値観を体現していました。彼らの無軌道で享楽的な姿は、それを真似た「太陽族」が現れるほど若者に支持されました。一方で、戦争の記憶がまだ強く残る世代の大人たちからは反感と顰蹙を強烈に買ったわけですが、石原さんご自身は、実際に小説に書かれたような高校生活を送られたんですか?
石原 僕は湘南高校に通っていたときに、1年くらい休学しているんです。日本一早い登校拒否だったんじゃないかな。(笑)
栗原 学校へ行かなくなった理由は?
石原 旧制の湘南中学というのは、戦時中は海兵の予備校みたいなところで、僕の同級生にも有名な軍人の子弟がたくさんいました。ところが、戦争が終わって一夜明けた途端、教師たちの理想が旧制中学時代とがらりと変わって、「海兵に入り、立派な海軍士官になって、お国のために潔く死ね」から、「東大に入り、大蔵省の役人になって、出世しろ」となったので、うんざりしてばかばかしくなった。それで、親もよく許してくれたと思うけど、学校へ行かず、映画や展覧会へ出かけたりオペラを聴いたり、シュールレアリスムの絵に凝ったり、実存主義の小説に読みふけったり、好きなことばかりしていました。
栗原 じゃあ、「太陽の季節」に描かれた湘南の風俗と、湘南高生たちの生活にはあまり関係がなかったわけですか。
石原 ないですね。無頼だったのは弟のほうです。裕次郎は慶應志木という、その頃、慶應へ入り損なった落ちこぼれが集められる学校へ通っていて。悪い仲間にさそわれてぐれてしまってね。
豊崎 今では名門校ですよね。
石原 そうでしょ。当時は不良の集まりみたいな学校で、でも学生はいいとこの子たちだから、遊び方が派手でね。弟はそんなのと対等に付き合っていると金もいるってんで、銀座に年上の彼女をつくってさ。こっちが大学の寮で安焼酎呑んでバンカラやってると、週末に「おい兄貴、ちょっと付き合えよ」なんて電話がかかってくるんです。それで有楽町で電車を降りるとあいつが駅で待っていて、なじみのクラブに連れて行ってくれる。そこで初めてカクテルなんて頼んで、酒の名前やなんかを、いつか何かのネタになると思ってコースターにメモして持って帰ったのを覚えていますよ。
豊崎 長編1作目の『亀裂(*2)』にまさしくそういうナイトクラブの風俗が描かれていますね。
栗原 主人公は新進気鋭の青年作家で、生意気な弟がいたりと、実際の石原さんに近い人物像ですよね。
石原 そうそう。「フィフティ」というあだ名のクラブマネージャーも実際にいたし、力道山のタッグパートナーだった遠藤幸吉(*3)、女優の瑳峨三智子(*4)ら、実際に遊んでいた仲間たちが登場人物のモデルになりました。
栗原 そうだったんですか! そうしてデビュー直後から流行作家になり、政界入りするまでの13年の間に、実に、31作の長編小説と100作以上の短編小説を書かれる。
豊崎 すごい量ですよっ、これは。
石原 どれも面白いんだよ。