日生劇場を持てた理由は
豊崎 日生劇場というと、石原さんは浅利慶太さんとともに、63年の劇場オープン当初から取締役を務めていらしたとか。いったいどんな経緯で着任されたのですか?
石原 劇場を持てたのは奇跡のような巡り合わせでね。その頃、日本の新劇ってすごくシャビーで、上演する場所も演目も古臭くてつまらなかった。劇場の数も少なく、第一生命ホールか三越劇場くらいしかなくて、海外演劇の翻訳ばかりでオリジナリティもなかったのでね。なんとか風通しを良くしたいという気持ちがあった。それで、渋谷の東急文化会館にあった映画館を劇場に改装できないかと思いついて、海の遊び仲間だった東急社長(当時)の五島昇さんに「五島さん、渋谷パンテオン、僕にくださいよ。2億くらいかけて改装したら、新劇のメッカにしますよ」って言ってみた。そしたら何日か後に電話がかかってきて「いい話があるぞ。日本生命が東京本社と一緒に劇場建てるそうだ。僕が社長になって君に任せるから、それを乗っ取っちまえよ」と言うのです。そこで、仲間と合宿して企画書を作ったら、日生社長(当時)の弘世現(ひろせげん)さんが大変感心して、「よし任せた」と言ってくれたんです。
豊崎 それは、石原さんがおいくつのときですか。
石原 最初に発案したのは28歳のとき。そんな若造に、ぽんと、当時の額面で50億円近い金を動かしてくれたのですよ。
豊崎 20代の若者たちに何十億も投資して、好きにやらせてくれるって、すごいことですね。
石原 弘世さんも五島さんも大らかな良い人で、お二人のおかげでそんな奇跡のようなことが実現できた。日本の社会にも、そういうダイナミズムがあったな。
栗原 それ以前には、石原さん、浅利さんの演出で、谷川俊太郎さん、寺山修司さんら「若い日本の会(*1)」のメンバーがわりと中心になって戯曲を書き下ろしていましたよね。
石原 僕は小説も忙しかったから、浅利に声をかけて日生劇場の番頭役をやってもらった。それで、劇団四季の最初のオリジナル作品の公演は、僕が書き下ろした『狼生きろ豚は死ね』でした。それを皮切りに谷川さんや寺山さんにも戯曲を書いてもらったんです。どれもそれまでの日本の新劇とはひと味違った、パンチの効いた公演になったと思います。