「家庭環境も置かれている状況もみんな様々。だからこそ『いじめ』に線引きなんてできないし、ボーダーラインもない。本人が『いじめ』と感じたら、それは『いじめ』です。」(写真提供:講談社)

いじめにボーダーラインはない

こんな風に私が言葉のあらゆる表情を知るきっかけになったのが中学の3年間。

いじめは正当化できません。

よく、こんな質問をされます。「どこからが〈いじめ〉だと思いますか?」と。

なんて変な質問なのだろうか。

いじめにはボーダーラインはないのです。線引きをすることでどれほど心の傷を負い、どれだけの命が消えてしまったのか。

家庭環境も置かれている状況もみんな様々です。だからこそ、線引きなんてできない。

本人が「いじめ」だと感じたら、それは「いじめ」なのです。

私が感じることのひとつに、「いじめ」というこの平仮名3文字は、子どもの可愛いやりとりに見えてしまうからする側には大したことないように感じてしまう。また、大人から見れば、子ども同士で解決することだと。

でも、子どもは、何が正しいのか、何が正しくないのか、わかっていない。

昔はイジメっ子が憎かったけれど、大人になって思えたのは、きっといじめる側にも何か悲しみがある。

家の中で問題を抱えている子どもには「いじめ」=モールス信号のようなもの。気づいて欲しいこともあるのだと感じます。家庭内での苦しみに。そこで、昔から感じていたことがあります。

だからこそ、誰かを悪者にする前に、「いじめ」という言葉を変えるべきではないのか?「犯罪」という罪に問われる、という認識をさせるべきでは。そう強く感じました。

助けて、苦しい、こんな風に素直に言葉が紡ぎ出せたら幸せなのに。

飲み込んでしまう。笑顔という仮面をつけて

きっと今日もアナタは泣いている。泣いてね、どんどん、泣いていい。