藤子・F・不二雄先生について

「ドラえもん」や「パーマン」などの代表作を持つ藤子・F・不二雄先生とは、1954年からコンビを解消する1987年まで「藤子不二雄」という共同ペンネームを使用していました。

1996年9月に藤子・F・不二雄先生が亡くなった後、先生を偲びながら、その人柄について語っています。

1964年に連載が始まった「オバケのQ太郎」はアニメ化もされ、大ブームに。「藤子不二雄」二人そろっての一枚。1966年撮影(写真:『婦人公論』1966年6月号)

「出てきたばかりの頃は、編集者に会うのも嫌がって、僕が一人で会ったりしたんですよ。だから、最初の頃は藤子不二雄というと僕一人のことだと思っていた編集が多かった。」(『婦人公論』1996年12月号)

藤子(A)先生によると、藤子・F・不二雄先生は生真面目そうに見えて、ジョークが好きだったとのこと。トキワ荘に住んでいた時には、ロウでつくったピーナッツをお皿に用意しておいて漫画家仲間に食べさせるなど、二人でよく悪戯をしていたようです。また、手塚先生に憧れて漫画家を目指したお二人ですが、巨匠とのこんな逸話も。

「僕と藤本君で富山出身同士、つい富山弁で喋っていると手塚先生が真似したんですよ。それを藤本君が嫌がってね。『もう、嫌だなぁ。なるたけ手塚先生の前では二人でしゃべらないようにしようよ』って。」(『婦人公論』1996年12月号)

藤子・F・不二雄先生の代表作「ドラえもん」について、これからも子どもたちに読み継がれていく「漫画のバイブル」だと評しつつ、そのスタンスについて語っていました。

「しかも彼には『ドラえもん』を描くことによって、子どもたちに救いをあたえようといった大義名分は一切ない。あくまで自分の喜びとして描いていることが素晴らしいんですよ。大人として、これで子どもたちを救ってやろうなんて思って描いた漫画なんて、子どもは読みませんから。」(『婦人公論』1996年12月号)