『役者ほど素敵な商売はない』市村正親・著 新潮社

高校卒業後は演劇学校に進み、その後3年間、西村晃さんの付き人をやって、24歳のとき劇団四季に入団。それから退団するまでの17年間、演出家の浅利さんには人間形成をしてもらったと思っています。ダメ出しというきつい1000本ノックがずいぶん飛んできたけど、僕はありがたくいただきましたよ、勉強になるからね。しかもタダだもん。(笑)

1度は浅利さんの逆鱗にふれ、満員のお客さんを前に演じている最中に、舞台の袖から「オレはそんな演出をした覚えはないぞ!」と怒声を浴びせられたことも。お客さんに楽しんでもらうための、一種の味付けだと思っていた演技が、浅利さんの目には陳腐に映ったのでしょう。終演後、「今後仕事はないものと思ってくれ」とまで言われてしまい、泣き崩れました。

周りはあの時、「市村はこれで辞めるな」と思っていたらしい。でも僕は辞めようなんてこれっぽっちも思っていなかった。何が浅利さんを怒らせてしまったかを必死で考え、その夜、自分の非を認める手紙を書き、夜行列車に乗って長野の山荘で次の公演の稽古をしていた浅利さんに手渡しに行ったんです。

そうしたら、「わかった。そういう考えなら、また一緒に仕事をしよう」と言ってくれてね。そればかりか、「すき焼き食ってけ」。さらに「寒いからこれ持ってけ」と、着ていたカシミヤのセーターまでもらっちゃった。こんなことされると、ついていきたくなるよね。浅利さんはこういうアメとムチの使い分けが、本当に上手だったと思います。

 

劇団四季を辞め、『ミス・サイゴン』に挑む

実は、もう30年も前に僕が演じた『オペラ座の怪人』のファントムを「もう一回観たい」と言ってくれる人が、今もいるんですよ。「イッちゃんのファントムは泣ける」ともよく言われる。そんなこともあって、いろいろな役をやらせてもらったけれども、僕が今一番観てもらいたい演目は、『オペラ座の怪人』なんです。

日本初演は1988年、四季でやることになりました。オーディションは、生みの親の米国人演出家、ハロルド・プリンスが来日して行われました。浅利さんは、キーの高いファントムの歌は僕には歌いこなせないと思い、本当は僕にやらせたくなかったんだけど、オーディションで僕の歌を聞いたプリンスが「ブラボー、君でいく」と言ってくれた。

浅利さんとしては自分が気に入ったキャスティングでやりたかったし、自分で演出したかったんだろうね。でも、プリンスが「僕が全部やる」と譲らなかった。あの時、彼が僕をファントムに選んでくれなければ、僕のその後の人生はずいぶん違ったものになっていただろうと思います。