翌89年も僕はファントムを演じ、同年の年末には『NHK紅白歌合戦』にもファントム役で登場。90年の3度目の公演も決まっていて、ファントム役候補の筆頭には僕の名前が挙がっていました。ところがある時、衣装さんが「市村さん、次のファントムはお出にならないんですってね」と、ポロッと。えっ? 寝耳に水の僕。僕の表情を見て、慌てて口を押さえる彼女。

「ファントムは他のヤツにやらせるから」と浅利さんに告げられたのはその翌日でした。「はい」と言うしかなかった。そのときにね、ロンドンで初演を観た『ミス・サイゴン』の歌が遠くから聞こえてきたような気がしたんですよ。『ミス・サイゴン』は92年の日本初演が決まっていて、オーディションが行われることになっていたんです。

「今だな」。僕はこのとき、劇団四季を辞める決断をしました。団員でいたらオーディションは受けられない。ここは自分で動き出さなければ。もう迷いはありませんでした。衣装さんのポロッと発言も含めて、すべては僕を『ミス・サイゴン』に引き合わせるための伏線だったんだ。

そして、オーディションでエンジニア役に合格。次の仕事が決まる前に四季を退団し、もしこの役を勝ち取れなければ今後の舞台生活がどうなるかもわからなかった。そんななかでつかんだ大役だけに、本当にうれしかったですね。

こうして決まった『ミス・サイゴン』のエンジニア役は、僕の「当たり役」と言われ、初演からずっと、僕は舞台でエンジニアを生きることができる。役者としてこれ以上の幸せはありません。と同時に、起こることには何もかも意味があって、人生に無駄なことなんてひとつもないんじゃないかとも思えてきます。

 

妻は本当におもしろい女優さんです

退団後はいろいろな演出家の方と仕事ができるようになり、世界が広がりました。蜷川幸雄さんからの初オファーは『リチャード三世』。自分で言うのもなんだけど、これがとんでもなくおもしろくできちゃった。

リチャードは、悪事の限りを尽くす化け物のような醜男なんだけど、ニーナ(蜷川さん)の演出による僕のリチャードがめちゃめちゃカッコいいんです。加えて、新しいものを構築してくれた感覚があった。

僕も役作りはこだわりましたよ。アル・パチーノがリチャードを演じた映画『リチャードを探して』を観て、研究もした。エドワード王太子の未亡人アンをリチャードが口説く場面があるんですが、これは、化け物のような男が口説くのではないと気づいたんです。

姿形は醜くても心はとてもピュアで、アンに恋している男の恋愛劇なんだ。アンを思い、目を見つめ、手を取り「あなたのその目が私をこうさせた」と演じたんです。それを見たニーナは、「イッちゃんは、口説き方がうまいなあ」「ズルいよ、イチ、その言い方は」と大喜び。もううれしくてたまらない顔をするんですよ。