マジックインキで書かれた「少女A」という文字

明菜さんの担当マネージャーの角津徳五郎さんが、その日たまたま早起きして、フラリとレコード会社に立ち寄った。そこで、制作部の島田雄三さんの机の上にあった僕の手書きの原稿を目にしたそうです。原稿には、号外の見出しみたいな特大の文字で「少女A(16)」って書いてある。角津さんは一瞬で心を奪われてしまい、「これが売れなくて何が売れるんだ!」と、来生さん兄妹の曲で進行していた次の明菜のシングルのプロジェクトをひっくり返して「少女A」を世に出すため、奮闘してくれることになりました。このあたりからして、運命的でしょ? 劇画的と言ってもいいけど(笑)。そのシーンが目に浮かぶよね。

「小女A」は、オリコンチャート5位、テレビ「ベストテン」3位のヒットとなります。僕としてはスキャンダラスという勲章をもらった気分にさせてくれた大切な歌だったけれど、明菜さんは歌うことを嫌がっていたと、のちに角津さんに教えていただきました。つい6年前のことです(笑)。レコーディングも嫌がる明菜さんをなんとか説き伏せて、1回録っただけだったそうです。明菜さんとは一度きりしか会っていないけれど、確かにスタジオでは目も合わせてくれなかったね。(笑)

「少女A」っていうのは事件を起こした未成年が新聞の社会面に掲載される時の記号だからね。デビュー早々、不良のイメージがつくのは抵抗があったのかもしれない。それでも、彼女は17歳にして、あの世界を見事に歌い上げ表現することができたのだから、今あらためて考えると、彼女しかあの歌を歌うことができる歌手はいなかったのかもしれないね。

「少女A」を歌うことによって中森明菜という歌手に表現の幅が生まれた。それは僕が狙ったわけではなくて、来生さんたちの曲のピュアなテイストと正反対だから、否が応でも「振り幅がついてしまった」というだけのことでしょうね。でも結果的に明菜さんが、80年にデビューした松田聖子と双璧をなす存在になっていったのは、あの歌があったからなのは言うのも野暮な話だよね。清純派路線に乗っていても、スターにはなっていたと思いますが、間違いなく全然違うアイドルになっただろうね。

ところが、最初に中森明菜が自身のセレクトによって作った最初のベストアルバムには「少女A」が収録されていなかった。

歌手や作曲家と出会う未来を知らない、作詞を始める2年前、結婚したころの写真。お気に入りのメンズ・ビギのポロシャツを着て(写真提供◎売野さん)