寿美 プロポーズしたのも私のほうから。「私と結婚してくれませんか。してくれないなら、他の人と結婚しますけど、いいですか」。
高島 しかも、唐突にね。あれには驚いた。僕、固まっていたでしょ。
寿美 ええ。目がアッチいったり、コッチいったり、ちっとも定まらない。(笑)
高島 でも、あのとき、心のなかではちゃんと、「この人と生きていこう」と思っていたんだよ。
寿美 あら、そうなの? 私はとにかく自分の思いを伝えることで必死だったわ。
高島 そのわりには、僕の書いたラブレターは全然読んでくれなかった。
寿美 少しは読みましたよ。でも原稿用紙の束が、連日のようにドカドカと届くんだもの。内容も、「今日は雨です」とか「○○を食べました」とか雑談ばかり。
高島 最初はアレコレ自分の気持ちを書くんだけど、だんだんネタが尽きてきて、まるで少年少女の日記みたいになっちゃうんだ。
寿美 そのうち私は舞台の忙しさに追われて、封も切らなくなってしまった(笑)。読まなくても内容が想像できるから。
高島 でも全部とってある、って言ってたよね。それなのに、あるテレビ番組でラブレターの山を撮影することになり、「ちょっとアレ出して」と言ったら、「アレって何?」「ラブレターだよ」「お嫁にくるとき、読まずに捨てちゃった」だって。ひどいよね。せめて1通ぐらい残しておいてくれてもいいのに。(笑)
寿美 これでも、どこかに残ってないかと探したのよ。でも、どこにも見つからなくて。また暇を見つけて探すわね。
高島 お願いしますよ。(笑)
宝塚では料理も教える……?
2年の交際を経て1963年に結婚。それと同時に寿美さんは宝塚を退団し、主婦業をメインとする生活に入った。それが自然な流れで、仕事に未練はなかったのだという。65年に政宏さん、66年に政伸さんが誕生。その後、寿美さんが仕事を再開すると、夫婦でのディナーショーや司会の依頼が殺到した。
寿美 結婚して家庭に入ったものの、お料理がまったくできませんでした。最初の2年間は、そんな私を見かねたファンの奥様方が、おいしい料理をつくって順番に差し入れてくださったの。私はそれを温めてテーブルに並べるだけ。
高島 僕はそんなことに全然気づかなくて、宝塚というところは料理も教えるのか、と感心していた。歌もうまいし料理もうまい、いい嫁さんをもらったものだ、と。
寿美 そのうち、その奥様方に「いい加減にしなさい」と怒られて(笑)。料理を覚えるよう諭されたんです。それで、料理学校に通い始めました。
高島 3つもはしごして、一生懸命頑張っていた。