この世になんの未練もなかった
が、3日ほどたって、煙で目をつぶされ、全身火ぶくれになった母が、20キロばかり離れた親戚の家へ、手さぐり同様でたどりついたという知らせを受けた。衣服は焼けおち、肌も足も焼けただれ、飲まず食わずで3日間も彷徨(ほうこう)した母の苦痛を思ったとき、それまで聖戦と信じていた私も、初めて戦争を憎んだ。
その母に会いにいく暇もなく、終戦の日が来た。炎天下で油蝉の声をききながら、経理部の庭で、ラジオから流れる終戦の詔勅をきいた。全部員が整列する中で、将校たちの腰には、もう権威を象徴する長剣はなく、丸腰の彼らが、妙に哀しくみじめに見えた。
よく、終戦のとき、これで自由になってホッとした、とおっしゃるかたがいるけれど、私にはそんな感慨は微塵もなかった。日本が負けたときは死ぬときだと、長く思い続けていて、何故か平家滅亡の壇の浦の運命が、やがて来るのだろうと信じていたから、なんとか苦しまずに死にたいと、そればかり考えていた。
もう家も財産も焼けて、母子ともども裸になってしまったし、朝鮮にいる父も、敗戦と共に死ぬ運命にあるのだろうと思うと、この世になんの未練もなかった。また、余りにも親しいひとたちの死や、町の破壊を見てきた所為(せい)で、死ということに不感症になっていたとも言える。
が、現実はそんな悠長なものではなかった。とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、3日3晩ほとんど寝ずに燃した。
ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、目は煙で真っ赤に腫れあがった。
頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。
今も、私は、あのとき一度死んだ生命だと、居直っている。それが、その後39年、どんな苦労にもへこたれず、生きてきた原動力になったのかも知れない。
※本稿は、『少女たちの戦争』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。漢数字の表記を洋数字に変更し、見出しは読みやすさのため、編集部で新たに加えています。
『少女たちの戦争』(編:中央公論新社/中央公論新社)
「サヨナラ」も言えぬまま別れた若き兵士との一瞬の邂逅、防空壕で友と感想を語り合った吉屋信子の少女小説、東京大空襲の翌日に食べたヤケッパチの〈最後の昼餐〉……戦時にも疎開や空襲以外の日々の営みがあり、青春があった。太平洋戦争開戦時20歳未満、妻でも母でもなく〈少女〉だった27人の女性たちが見つめた、戦時下の日常。すぐれた書き手による随筆を精選したオリジナル・アンソロジー。