終戦を20歳で迎えたという橋田さん(写真提供:一般財団法人 橋田文化財団)
当時20歳、大阪の海軍経理部に勤務しているときに終戦を迎えた脚本家の橋田壽賀子さん。しかしラジオから流れる終戦の詔勅をきいても感慨は微塵もなく、「なんとか苦しまずに死にたい」と、そればかり考えていたといいます。太平洋戦争開戦時20歳未満だった27人の女性たちによる、戦時下の日常を綴ったエッセイ集『少女たちの戦争』(中央公論新社編)から、橋田壽賀子さんが1984年に綴った一篇「空襲・終戦・いさぎよく死のう」をお届けします。

青春の真っただなかで迎えた終戦

また終戦記念日がめぐってくる。あれから39年もたって、随分いろんなことを忘れてしまったけれど、終戦の日と、その前後のことは、今でも鮮明によみがえってくる。日本人の誰もがそうであったように、私にも私の人生を変える最も烈(はげ)しい運命の転機だったからであろう。昭和20〔1945〕年、私は二十(はたち)、青春の真っただなかで迎えた終戦であった。

当時、日本女子大の3年だった私は、東京の学校も空襲で閉鎖され、その年の3月ごろから大阪へ帰って、海軍経理部へ勤めていた。母の暮らす堺市とは大分離れた、宝塚に近いところにあったので、母とは別れての下宿暮らしであった。

そのころ、大阪周辺でも毎日のように空襲があり、経理部でも防空壕へ避難する間に、何度機銃掃射にあったか知れない。夜は、必ずどこかで火の手があがり、その度に町や都市が焼土(しょうど)と化していく。

7月のなかばに、下宿の2階から夜空を焦がす炎が、ひときわ烈しく眺められた。堺市が空襲を受けているらしいという情報に、思わず息をのんだ。堺市には、母がひとりで暮らしている家があった。が、勿論(もちろん)助けにいくことも出来ない。夜通し震えながら、ただ真っ赤な空を見つめているだけであった。

『少女たちの戦争』(編:中央公論新社/中央公論新社)

夜があけて、事情を察した上司が、様子を見にゆく車を出して下さったが、とても熱くて町の中へは入れない。見渡す限りの焼け野原には、黒焦げの死体が至るところに転がり、電車の高架線の鉄塔には、自転車やトタン板などがからまりついていて、熱風の恐ろしさに身の毛がよだった。

父は、京城(今のソウル)で事業をしていて、当時もう連絡も途絶え、母には疎開をすすめていたが、留守を守るもののつとめだと、堺の家を動こうとはしなかった。その母のいる家の辺りは、防空壕の中まで火が入り、死体が折り重なっていると知らされ、母のことは諦めて引き返した。