――それ以降は順調だったのでしょうか?

濵砂 やっぱりそういうわけでもないんです。
ようやく収穫できるようになったものの、綺麗な柚子ばかりじゃないんですよ。

そこで、これを加工しないと、果実としての柚子の出荷だけでは生計を立てるのは難しい、と。では、誰か加工をというお話になったのですが、この村には誰1人加工に関する技術やノウハウを持っている人はいないですし、やろうとする人もいないわけです。

そこで結局一番先頭を走っていたうちの父親へ、周りから「君しかいないだろう」と白羽の矢が立った。「加工場を頑張ってくれ、支援をするから」と。

周りの支援を受けつつ、父は普及センターなどの指導を受けながら加工を始めたんです。

正直、当時は最悪でした。
10年目頃には倒産寸前でしたから。私が小中学校の頃は火の車でした。それでも頑張って、東京・大阪に売り先を見つけに行く。でも、当時は柚子製品の認知度が低く、使い方の説明に苦労した時代でした。売り上げも思うように上がらず、宿泊費・旅費を差し引くと毎回赤字。行けば行くほど赤字が膨らむわけです。