優れていた点(2)―「朝廷」対「頼朝」という構図へのすり替え

この演説のもう一つのポイントは、追討の対象は義時であったにもかかわらず、政子は「義時のために」ではなく、「頼朝公の恩に報いるために立ち上がれ」と訴えかけたことです。「朝廷VS.義時」の対立の構図を、「朝廷VS.頼朝」の構図にもすり替えたわけです。

御家人たちにとって〝鎌倉殿〟頼朝は、カリスマ的な存在でした。ですから、「あなた方は、頼朝公が与えてくださった恩に報いますか。それとも恩を仇で返すのですか」と政子から問われれば、「それは報いますとも」と答えるしかありません。

もし政子がこのとき、「弟・義時のために立ち上がってください」と訴えかけたとしたら、御家人たちの心を一つにまとめることは不可能だったでしょう。

さらに政子は、御家人たちが朝廷に弓を引くことへの抵抗感を、取り除くための配慮、工夫もしていました。

演説をもう一度読み直してみると、政子は「後鳥羽上皇と戦え」とは言っていません。「悪いのは後鳥羽上皇に讒言(ざんげん)をして、上皇の心を惑わした者たちであり、その君側(くんそく)の奸臣(かんしん)である藤原秀康、三浦胤義(たねよし)たちを討て─」と言っています。

藤原秀康は後鳥羽上皇の近臣の武士であり、三浦胤義は鎌倉武士ではありましたが、当時は京都におり、秀康から誘われるままに上皇側についた人物でした。

「この戦いは上皇との戦いではなく、君側の奸臣との戦いである」という方向に、政子は御家人たちの意識を向けさせようとしたのです。

畿内在住の武士と東国武士では、同じ武士でも朝廷に対する距離感はだいぶ異なり、東国武士には独立の気風が強くありました。とはいえ、天皇や上皇に対する畏怖(いふ)の念は抱いています。政子の発言には、「自分たちは恐れ多いことをしようとしているのではないか」という御家人たちの恐怖感を、和らげる作用がありました。