終戦から73年。戦争の時代に少年少女だった人たちが高齢になっています。平和な時代を生きる私たちにとって戦争は無縁に思えますが、過去の大戦を体験した人々も、平穏な日常生活を送っていたのです。どのように国は戦争に向かっていくのか。普通の人の暮らしはどう変わるのか。時代の移り変わりを体験した人たちに、詩人・エッセイストの堤江実さんが取材します。(取材・文=堤江実 撮影=藤澤靖子)
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女性初の音楽評論家、ラジオDJとして戦後、道を切り拓いてきた湯川れい子さん。作詞家としても数多くのヒット曲を手がけてきました。父が軍人だったという湯川さんは、どのような少女時代を過ごしたのでしょうか。
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◆週末には父と母がダンスをしていた
私が生まれたのは、1936年の1月22日。その1ヵ月後に、日本が大きく軍事国家体制へと舵を切るきっかけになった二・二六事件が起きました。
父は軍人で、上海や青島で駐在武官や軍艦の艦長を長年務めたあと、日本に戻って作戦・指揮をつかさどる軍令部に所属し、いわば軍事国家の中枢にいた人でした。
日本中が戦時色に染まり、窮屈を強いられた時代。父は軍人だったけれど、庭には父が丹精して育てた木々や草花があふれ、家には音楽が絶えなかったのです。玄関を入るとフローリングの部屋で、その隣の応接室に蓄音機があって。海外生活が長かった父の影響もあってか、週末になると兄や姉が蓄音機係になり、父と母がフローリングでダンスをしていました。
それから十五夜の名月の時には広い濡れ縁にお団子とすすきを飾り、父が座布団の上に端然と座って月を見ながら尺八を吹いて。母はお琴、兄と姉はピアノで参加。私はまだ小さかったので、コップとかお茶碗とかを目の前に並べられて、これで好きな音を出しなさいって。そうして家族で箏曲の「六段の調」とか「千鳥の曲」とか、そういう曲を合奏したのを鮮明に覚えています。
私は、母が40すぎの時の、兄たちとすごく年が離れた末っ子だったので、もう甘やかされて。父が仕事から帰るたび、絵本のキンダーブックや虎屋の羊羹が鞄から出てくるような、本当に幸せな子ども時代でした。