◆兄から聞いた 最後の言葉
長兄は学生時代、徴兵の延期願いを4度出しています。勉強をしたいからという理由で。しかし卒業するとすぐ赤紙が来て徴兵されました。
その兄がいよいよ戦地に送られる前、44年の6月に少しの休暇を取って帰ってきたときに、3日間かけて庭に防空壕を掘ってくれました。父を亡くし男手のない私たちを思いやって、家族がそっくり入れるような四畳半ぐらいの大きさのものを、たった一人で。
その間、私は母と一緒に庭の梅の木の下にござを敷いて、汗と泥まみれになって上がってくる兄にお茶や梅干しを出したりしながら、防空壕ができあがるのを見ていました。
私と母に聞かせるためでしょう、兄は口笛でいろいろな曲を吹いてくれました。そのなかにものすごくきれいな曲があって。「それは何という曲ですか?」と聞く私に、兄はただ「僕が作った曲だよ」と。それが当時アメリカで大ヒットしていた「スリーピー・ラグーン」だと知ったのは、戦後、進駐軍の放送で聴いた時でした。当時は、アメリカの歌だなんて言えなかったのですね。
掘り終わったあと、制服に着替えて兵舎に帰っていく前に、湯上がりのいい匂いをさせながら私を抱き上げて、「あれが兄ちゃまだからね、覚えていてね」と、夕暮れの空に輝く一番星を指さしました。これが、兄から聞いた最後の言葉になってしまいました。
戦死したのは、終戦の4ヵ月前。フィリピンのルソン島。アメリカ軍の上陸に備えて、そこの村を死守せよと命令された。食べるものもなく、生きて帰れるあてもない。帰ってきたのは、遺骨箱の中の小さな石がひとつだけ。今だって遺骨の収集もできません。そんなところで、あの、音楽や絵を愛したやさしかった兄は、何で死んでいかなければならなかったのか。本当に悔しいです。
後に、「最後に家を出る時、お兄ちゃまは何とおっしゃったの?」と母に聞いたら、「最後まであの子は冗談を言ったのよ」と。出かけていく時に、「母様、もし僕が、肌の色が黒くて目のクリクリッした、髪の毛の縮れた子どもを連れて帰ってきて、その子が『ばばちゃま』って言っても卒倒しないでね」と言い残していったって。私、大泣きしました。兄は母には言えなかったけれど、南方の戦場に行くとわかっていたんですね。