パンダ、「敵の工作員」になる

しかし1941年の中国初のパンダ外交以降、日本でパンダに関する記事のトーンは一転し、パンダは可愛げのない動物として扱われた。

41年11月12日付『読売新聞』は、「珍獣でご機嫌とり/見るも哀れな蔣夫妻の対米媚態」との見出しで、宋美齢のパンダ贈呈を報じている。

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美齢はアメリカ名士の接待役である、殊に対米放送を行ったり宣伝に身浮をやつしているが、あの手この手の宣伝も手がつまったか、最近思いついたのが四川省の山奥に住む熊猫牝牡(くまねこめすおす)二頭をアメリカの中国救済協会に贈呈するという名案でさっそく四川省のとある温泉の叢草(くさむら)にひそんでいた二頭の熊猫一対を百余人の狩人の手で捕えさせた、この熊猫とは文字通り熊とも猫ともつかぬ珍妙な獣で支那紙の説明によると二頭とも全黒色の内に白の斑点があり、毛は密にして長く眼光は爛々として光を放ち、表情は極めて粗野、一見して狼か犬と思われるが四つの掌(てのひら)はさながら熊を思わせ、頭部の動作を見ていると猫のそれによく似ているという獣である

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この記事には、ショウ介石と宋美齢が並び立つ写真の下にレッサーパンダの写真が添えられている。記事はラジオなどを通じて、宋美齢がパンダという動物を使って対米宣伝を行ったニュースをキャッチしたのではないか。

しかし、そこで使われたパンダなる動物が白黒のクマのような外見とは知らず、「パンダ」と紹介されていたレッサーパンダの写真を見つけてきて使用したものと推測される。

【写真】「珍獣でご機嫌とり」と記された『読売新聞』1941年11月12日朝刊。写真にはレッサーパンダが(提供:読売新聞社)

この記者の名誉のために補足しておくと、同記事はパンダの写真は間違えたものの、宋美齢のパンダ贈呈の真意と効果については正確に看破している。

同記事は続けて「宋美齢がこの珍奇動物をアメリカに贈る狙いどころは先ずこの熊猫をニューヨークでお目見得さしたのち同地の放送局を通じ大懸賞付命名募集を行いこれに依って支那難民救済金醵(きょきん)を増そうという魂胆」だと明かし、「新しい珍らしい物に飛びつくアメリカ人の気質をねらった所は流石といえばさすがではある」と辛辣に評している。

読売に遅れること二週間の11月26日には、『朝日新聞』も「宋美齢・米国へ穴熊の使い」という記事を掲載、香港でパンダを見送る宋美齢の写真を大きく紹介した。

こちらは正しくジャイアントパンダの写真を使ったが、その名前を誤解からか故意なのか「穴熊」と表記している。そして『読売新聞』の記事と同様に「宣伝に抜け目のない宋美齢が考え出したアメリカの御機嫌取りの一つ」で、「物珍しがりのアメリカ人の関心をひこうという苦肉の策」と意図を解説した。

※本稿は、『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ)の一部を再編集したものです。


中国パンダ外交史』 (著:家永真幸/講談社選書メチエ)

ちょうど50年前の1972年10月、日中友好の証として、上野動物園に2頭のパンダがやってきた。しかし、中国がパンダの外交的価値に気づいたのは、1930年代にさかのぼる。戦争と革命、経済成長の激動の歴史のなかで、パンダはいかに世界を魅了し、政治利用されてきたか。国際政治、地球環境などさまざまな問題と絡ませながら、近代国家の自己像をパンダを通して国際社会にアピールし、近年では、一帯一路構想下でのパンダの送り先や、二度の北京五輪で採用されたパンダのキャラクターなど、その利用はますます巧みになっている。2011年刊の『パンダ外交』(メディアファクトリー新書)を全面改訂し、新章を加筆。