1930年代の日本では、パンダが「敵の工作員」扱いされていた?(写真提供:Photo AC)
ちょうど50年前の1972年10月、日中友好の証として「カンカン」「ランラン」2頭のパンダが贈呈されると、日本国内では熱狂的なパンダ・ブームが巻き起こりました。実は中国がパンダの外交的価値に気づいたのは1930年代で、「戦争や革命、経済成長のなかでパンダは政治利用されてきた」と東京女子大学・家永真幸准教授は言います。確かに30年代の日本では、パンダが「敵の工作員」扱いされることもあったそうで――。

徹子、パンダと出合う

生きたパンダの初来日までは、日本でこの珍獣はほとんど知られていなかった。

戦前の1920年代末に、華族の秘境探検家で鳥類学者だった蜂須賀正氏(はちすかまさうじ)が、イギリスの動物収集家が所有する珍獣四不像(シフゾウ)と交換してもらうためにパンダ捕獲計画を検討したとの逸話は残っている。

しかしこれはごく進取的な例外である。こういった特殊な職業者を含め、戦前からパンダに興味をもっていたのは、ごく限られた一部の人々だけだったと考えられる。

その限られた人々の代表格が、タレントの黒柳徹子だ。

黒柳は、自らを「パンダ研究家」と名乗るほどのパンダ・ファンである。彼女は1972年のパンダ・ブーム以前から各種メディアでこの動物を紹介し、パンダの知名度向上に貢献してきた。現在では「日本パンダ保護協会」の名誉会長も務めている。

同協会は、中国が80年に設立した世界最初のパンダ専門研究施設「龍臥(がりゅう)中国パンダ保護研究センター」の窓口として、日本の民間人に援助を呼びかける機関だ。

黒柳がこれほどまでパンダに対して積極的になったきっかけは戦前、児童期の体験にある。

彼女の回想によると、小学校低学年のときカメラマンの叔父がアメリカからパンダのぬいぐるみをお土産に買って帰った。これがパンダとの最初の出合いだという。黒柳はこのぬいぐるみをとても気に入り、疎開先にまで連れていくほど大事にした。

このぬいぐるみは、36年末にアメリカに初めて生きた幼いパンダのスーリンが到来し、大ブームが巻き起こっていた最中に製造されたものと考えて間違いない。

黒柳が小学校低学年だった時期は、アメリカにスーリンが到着してから中国がパンダの禁猟措置をとるまでの36〜39年頃にちょうど合致するからだ。

つまり、黒柳は戦前からのパンダ・ファンであるだけでなく、世界初のパンダ・ブームに巻き込まれた一人なのだ。パンダを巡る歴史の生き証人といえよう。