誘致に失敗し続ける
66年に上野動物園の第三代園長に就任した今泉英一(いまいずみえいいち)は園長就任にあたり、「世界でもソ連と中国の動物園にしかいないジャイアントパンダ(シロクロのまだらグマ)をぜひ中国と交渉して上野に入れたい」と66年4月2日付『読売新聞』で抱負を語っている。
文中の「シロクロのまだらグマ」は、おそらく「ジャイアントパンダ」では一般読者が理解できないと考えた新聞記者が、書き加えたのであろう。
3年後の69年には、横浜の動物商・京浜鳥獣貿易の社長である河野通敬(こうのみちのり)が、パンダを日本に贈ってくれるよう中国政府と交渉している。京浜鳥獣貿易は、上野動物園へのヨーロッパオオカミやマレーバクの納入をはじめ、数々の動物園との取り引きの実績がある経験豊富な動物商だった。
当時としては珍しく、河野はまだ国交のない中国への単独渡航を許可された。「中国における動物の研究と動物園見学」という名目だ。69年、河野は広州、上海、南京、北京の動物園を回り、それぞれの動物園でパンダを見た。
続いて河野は、北京で中国の対日業務の窓口であった王暁雲(おうぎょううん)に会い、「ぜひ中国のパンダを日本の子どもたちに見せてやって」と頼んだ。
この面会は、日中文化交流協会の常任理事、西園寺公一(さいおんじきんかず)の紹介で実現したものだ。西園寺は58年から70年まで北京に住んで日本の政治家や財界人の中国とのパイプ役を務め、「民間大使」の異名をとった人物である。
しかし王暁雲は、「現在の佐藤政権下ではダメ」と、河野の要請を拒否したという。64年に成立した佐藤栄作政権は、中華民国と断交してまで中華人民共和国と国交を樹立することに、一貫して消極的だった。その姿勢によって佐藤政権は、中華人民共和国政府から強い反発を受けていたのである。
やり手の動物商である河野でさえパンダを日本に連れ帰ることに失敗した。中国側はその原因を「日本政府の側にある」と説明している。すなわち、パンダを渡さないことを通じて日本の対中国政策を批判したわけだ。
この後も、引き続きパンダ誘致を試みる日本側に、中国は同様の意思表示を繰り返した。