妊娠中、出産後も洋裁学校で学び、1951年に洋装店「ひよしや」を開く(撮影・石井幸之助)(写真提供:森英恵事務所)

かつて森さんに「料理はするんですか」と聞いたことがある。忙しくて料理などしないと思い込んでいたが、笑いながら、「あら、私だって料理はするわよ。ちゃちゃっとね」と答えた。孫でタレントの森泉さんも「ママ森(森英恵さん)は料理が上手で、日曜日にはご飯を作ってくれた。いつもちゃちゃっと作っていた」と語っている。

身の体に秘めたあくなき挑戦心は、いくつもの悔しさから生まれた。

高校在学中から美術学校に進みたかったが、医者だった父親からは「医者になるか嫁に行くか」と選択を迫られ、東京女子大に進学した。結婚後、家庭に入ったものの、「打ち込める仕事がしたい」と妊娠中に専門学校に通い、子育てをしながら洋裁店を開いた。

デザイナーとして成功を収め、順風満帆に見えたものの、「女優のための華やかな服を作るデザイナー」と陰口をたたかれ、また、戦後の日本社会が欧米のファッションデザインばかりもてはやし、まねし、取り入れることへのいらだちもあったようだ。

そして、ニューヨークの百貨店の地下の売り場で見た、安物の日本製ブラウス。オペラ「蝶々夫人」で使われた、どこの国かもわからないような衣装に抱いた屈辱感。いつか世界に通用する「日本らしい美しさ」を表現したいとの思いが海外への挑戦へと駆り立てた。

アメリカの高級品市場で成功し、顧客にはモナコのグレース公妃やナンシー・レーガン米大統領夫人など、そうそうたる女性たちが名を連ねた。77年には、モードの最高峰であるパリ・オートクチュール(高級注文服)にアジアから初めて正式に参加し、27年にわたって新作を発表し続けた。

森英恵という蝶は、日本を背負い、どんな時にも諦めない強い気持ちで、時代を切り開いた。その歩みは日本の戦後史そのものでもあった。
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