悲しみの中から生まれる力もある
そもそも私が宝塚を目指したのは、「娘がタカラジェンヌなんです」と自慢したかった父に頼まれたから。4歳からバレエは続けていましたが、舞台は見たことがなかった。それで連れていってもらって『「BLUE・MOON・BLUE-月明かりの赤い花」』という作品を見たんです。感動しました。
でも、そんなに積極的に受験に取り組んだわけではなかった。一度落ちてようやく火がつき、絶対に受かりたいという気持ちが沸き、二度目の受験で合格することができました。やはりうれしかったですね。大阪在住の私は、すみれ寮(宝塚歌劇団の寮)には入らず、自宅から通いましたが、母がずっとサポートしてくれていました。私の宝塚生活は、母との二人三脚だった気がします。
――― その母が病に倒れ、妃乃さんは納得するまで看病したいと、退団を申し出る。しかし、退団を待つことなく、母は天国に旅立った。退団公演を終えた妃乃さんの心の中には、ぽっかりと大きな穴が開いたままだったという。
その直後、東日本大震災が起きた。
母を亡くした頃の私は、ニュースで悲惨な映像を見ながら泣いてばかりでした。そして、自分に何かできることはないかと思い立ち、とりあえず退団に際していただいたご祝儀などを寄付することを思い立ったのです。寄付するなら、きちんとトップの方にお渡ししたかった。そこで、南三陸町の町長さんにコンタクトを取りました。
――― 最初はなかなかつないでもらえなかったが、タカラジェンヌの持ち味である粘り強さを発揮した妃乃さんは、ついに南三陸町長に直接会って寄付を渡すことを実現。その時に町長からかけられた言葉が、妃乃さんのその後を方向づけた。
母の話をしたときに町長は「あんじさん、涙って枯れないんですよ。僕も震災の後、毎日泣きました。あんじさんは泣いていいんですよ」と言ってくださいました。その言葉で初めて自分の悲しみを肯定していただいたように感じました。
人は希望や目標があれば生きていけますが、希望も目標もなくなってしまっても生きるしかない。とてつもない悲しみの中から生まれる力もある、ということを感じたんです。
――― それから毎月、大阪から南三陸町に通うことになる妃乃さん。がれきの撤去、遺体捜索、ボランティアでなんでもやった。
組織を動かすのが得意な人もいるでしょうが、私は目の前にいるたった一人の人をなんとかしたい、という気持ちが強いことに気づきました。自分の目の前にいる人が困っていたら何とかしてあげたい。自分にできることを探したい。その一念で行動していたのです。