平安貴族に求められること

文学散文だけではありません。

歌の世界では、性や立場の越境が、さらに頻繁に行われ、母が息子の、父が娘の歌を代作することも、平安時代には珍しくありません。

左右の組に分かれて歌の優劣を競う「歌合(うたあわせ)」では、七十の婆と三十の青年が、恋愛仕立ての歌を詠み合うということもありました。「小倉百人一首」の、

"音に聞く高師(たかし)の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ"(噂に高い、高石の浜のあだ波じゃないけど、浮気男で知られたあなたの誘いには乗らないよ。あとでつらい目にあって涙で袖が濡ぬれるといけないから)

は、堀河院の御時、「艶書合(けそうぶみあわせ)」つまりは、公達と女房たちとでラブレター合戦をした際、祐子内親王家紀伊によって詠まれたものです(『金葉和歌集』では"音に聞く高師の浦")。

紀伊は当時70歳ほどで、歌は、藤原俊忠の次の歌への返歌でした。"人しれぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ"(人知れずあなたに恋をしています。荒磯の浦風で波が寄る、その波のように、夜になったらあなたに言い寄りたい)

磯や波にかけた俊忠の口説きに、同じく波で切り返したわけです。

歌が詠まれた康和4(1102)年閏5月当時、俊忠は30歳ですから、2人の年齢差は約40歳。

現実の恋のやり取りではなく、歌合の場での架空のやり取りとはいえ、七十婆と三十男の恋歌の組み合わせを設定すること自体、年齢差やら何やら、いろんな境を越えているといえます。

『ジェンダーレスの日本史――古典で知る驚きの性』(著:大塚 ひかり/中公新書ラクレ)