幼い頃に母親を病気で亡くし、父親からの愛情も薄い幼少期を送った里田愛子さん(仮名・大阪府・無職・73歳)は、新しい会社で出会った「児童養護施設に預けている息子たちを迎えに行きたい」と話す男に押し切られ、結婚したものの――。
父の反対を押し切り、駆け落ち同然で結婚
私の母は43歳の時、白血病で亡くなりました。四姉妹の末っ子で、当時6歳だった私は姉たちが育てることに。父は44歳と男盛りで、次々と女の人と付き合うようになっていきました。今になれば、父が女の人なしではいられない性分だったとわかります。でも、その時分は私だけの父でいてほしい気持ちが強く、大嫌いでたまりませんでした。
2人の子どもを連れた女の人が、わが家に間借りするようになったのはその頃です。父の恋人になった彼女と子どもたちが、父と一緒に遊びに行く姿を見て、小学2年生だった私は父を取られたようで、悔しくて、家で泣き崩れたこともありました。
そんな悲しい生活が2年ほど続いた頃、ひとり暮らしをしていた父の姉が一緒に住んでくれることになったのです。男勝りでちょっと厳しいけれど、優しい伯母さんが私は大好きでした。
伯母さんの口三味線に合わせて腰をふりふり踊ったり、編んでくれた服を着たり、礼儀や家事を教えてもらったり。本当のお母さんのように接してくれたことが嬉しくて、大人になったら恩返しをしようと心に決めていました。
けれど、暮らし始めて5年目の夏から伯母さんは臥せってしまい、私たち姉妹の看病もむなしく翌年の春に亡くなってしまったのです。父の恋人はその後、ほかの男性と結婚するからと、父のもとを去って行きました。
伯母さんが亡くなった年に1番上の姉さん、3年後に3番目の姉さん、その2年後に2番目の姉さんが嫁いでいき、私は父と2人の暮らしに。そんな私にも青春時代は訪れ、19歳の時に長姉の夫の弟と交際を始め、2年ほどお付き合いを続けていました。
結婚も考えていましたが、「姑はあなたの彼を一番溺愛しているから、結婚したら愛子たちの家に住みつくはず。意地悪でわがままな人だから、大事な妹に苦労させたくない。早く別れなさい」と、姉から毎日のように反対され、私と彼は泣く泣く別れることになったのです。
この出来事をきっかけに、私は一生独身のままキャリアウーマンになってお金をたくさん貯め、児童養護施設にいる子どもを養子に迎えたい、と考えるようになりました。