出生率は政策では動かない
酒井 明治時代に広まった処女絶対主義を日本女性が手放したのは、1970年代頃でしょうか。
上野 70年代くらいまで、ヨーロッパもアメリカも性道徳は保守的でした。そんななか60年代に各国で性革命が起きた。主導したのは、ベトナム反戦などと結びついて世界各国で起こった学生運動です。
酒井 それまでの保守的な性道徳に反発して、もっと自由にセックスしてもいいじゃないか、と。
上野 避妊法の普及も、それを可能にした要因のひとつでした。
酒井 日本がその製造技術の高さを誇るコンドームですね。(笑)
上野 避妊に関していえば、日本では戦後、「家族計画」の名のもとに啓蒙活動が広まりました。日本で60年代に出生率が半減したのは、避妊法の普及が原因です。
酒井 女性が産みたくて5人も6人も産んでいたわけではなかった。
上野 出生率がぐんと上がったのは、近代になってから。それまでは低栄養で授乳期間が長かったことや、堕胎薬や間引きなどで子どもの数は抑制されていた。与謝野晶子は12人も子どもを産んでいますが、その時代が特殊だったと言えます。
酒井 戦後に子どもの数が2、3人になったのは、自然な状態に戻ったとも言えそうです。
上野 出生率低下傾向は、戦時下から始まっています。国は戦闘員確保のために「産めよ、殖やせよ」などと言い、10人以上産んだ母親は表彰されましたが、その期間、出生率は低下しています。政策の効果はありませんでした。
酒井 そもそも男の人が戦争に行って減っているわけだから、産みたくても産めませんよね。
上野 敗戦時の人口は約7200万人。そこに、外地から約600万人の引き揚げ者が戻ってくる。食糧不足を前提に、当時の厚生省は一転、出生抑制策を取ります。ところが政策とは逆に、出生率は跳ね上がった。これが私たち団塊の世代で、ここだけ人口が突出している。そして今や合計特殊出生率は1.30(2021年)。人口減で国はあたふたしています。