圧倒的なパフォーマンスを

バラエティ番組のような「アクティヴ」な教室空間が快活なコミュニケーションのみで覆われた空間なのだとすれば、そんなものは息が詰まりそうだ。

「自由に発言していいよ」などと中途半端に開かれているときこそ、おうおうにして、声が大きい生徒や表面的に社交的な生徒ばかりがのさばる。反対に、コミュニケーションが苦手な生徒や吃音傾向の生徒などが隅に追いやられる。中途半端な「自由」な空間ほど実質的な「自由」からほど遠い、という危うさがある。

僕が芸人のような教員を夢想するとき、そこで思い描くのは、コミュニケーションを円滑にまわすMCの姿とは少し異なる。もちろん、そういう資質も必要なのかもしれないが、個人的により追求したいのは、受け手が否応なしに巻き込まれてしまうような圧倒的なパフォーマンスのほうである。

チャイムが鳴ったら、ふいにあらわれ、1時間で空気をがらりと変えて、そのまま帰っていくような。その意味では、すぐれたミュージシャンのありかたにも通ずるのかもしれない。いずれにせよ、教員としての自分が考えることは、生徒がこれまで触れたことがないようなワンダーを与えたい、ということだ。

かつて自分がお笑いや音楽に感じたような新鮮な驚き。そのような驚きの体験を経て、生徒の思考や認識が一変してしまうようなことがあれば、それはなんと素敵な授業だろう!実際、僕が深夜ラジオでしばしば味わったのは、そのような解放的な体験だった。

『学校するからだ』(著:矢野利裕/晶文社)

以前からなんとなく抱いていた、授業や教師に対するこのような考えは、文化人類学者の山口昌男がとっくに指摘していたことでもあった。山口は「街の人間の足をとめさせる」街頭芸について論じるなかで、次のようなことを書いている。

寄席芸人ばかりでない。大学の教師も、教壇に立つ限り、弁舌を業とするかぎり、彼らが真に人の心を摑み取りにし、これを造型しようとするならば、この街芸の世界にときには立ち還ることが必要であったのだ。かりに、一たす一は……三といった、途方もないことを論証することができるとしたら、その思考のドラマに(それに価する)学生を参加させるのが教師の芸であるはずであり、伝え聴くところのオクスフォードにおけるヴィトゲンシュタインの講義には、そういう学生を参加させる(もちろん参加できない奴は脱落する)ドラマ性が満ち満ちていたということである。――山口昌男『本の神話学』

とくに義務教育期間である中学生にとって、学校の勉強は必ずしも望んでするものではない。義務教育でないとはいえ、高校生だってそういうところがあるだろうし、もしかしたら大学生だってそうかもしれない。

だとすれば、そんな彼らを振り向かせる「弁舌」とともに、生徒を退屈な日常の外に連れ出さなくてはいけない。教壇とは、そのような非日常の「ドラマ」を披露する芸能の舞台でありうる。